礼拝メッセージ 2010年07月04日
第一テモテ3:14-16「真理の柱、土台」

明らかにされた秘密



多くの人は、天国というのは神のいいつけを守り良いことを行った人へのご褒美として入ることが許される場所だと考えます。しかし神は秘密にしていた救いのご計画を明らかにする中で、別のことをお示しになりました。
 アダムとエバが神のことばに背き、禁じられた木の実を食べてしまったとき、人間は罪と死の力の下に閉じ込められてしまいました。その時神のみこころのうちにはすでに確かな救いのご計画がありました。そご計画は少しずつ明らかにされ、特に預言者の時代には、救い主が来られるというメッセージが繰り返されることになります。
救いのご計画を託された人々は多くの試練や困難な時を耐えながら約束された救い主を待ち望み、ついに御子なる神は、マリヤを通して人の子供として誕生なさいました。
 イエス・キリストによって明らかにされた神の救いのご計画は驚くべきものでした。キリストは天国はご褒美ではなく、恵みであることを明らかにしたのです。
 誰も罪を犯さない者はなく、天国に入る資格を得るほど正しい人間はいないからです。かえって主イエスは私たち人間の罪を背負いその報いを身代わりとなって受けてくださいました。それは本当にびっくりするような話でした。誰もが、そのままで、自分の罪を認めキリストを救い主として信じるだけで救われ、天国に入ることが許されるのです。しかし、秘密はそれだけではありませんでした。

1.生ける神の家族



この秘密は聖書の言葉で言うなら「奥義」ということになります。奥義とは単なる秘密ではなく、時が来るまでは隠されているけれど、時が来たらば明らかにされるものです。そして、その神の救いのご計画の秘密の中の秘密、時至って明らかにされた奥義とは 「教会」なのです。
 14節にあるように、パウロは自分がエペソにいるテモテのもとを訪ねたいと願っていました。しかし、恐らく行かれないだろうと予測していました。そして、自分が足を運べない場合でも諸教会が正しく神の家で振る舞い、健全な歩みができることを何よりも願いました。なぜなら教会こそは神の救いのご計画の中心にあるものだからです。
 最初主の弟子たちは教会が神の救いの奥義であるということの意味が分からず、相変わらずイスラエルの国家としての再生を思い描いていました。ある異端グループの人々は地上の楽園が造られことがゴールで、現在の信仰生活はそこに入る権利を得るための選抜試験のように考えます。
 またある人々は、現実の教会の姿に幻滅し、つまづき、去って行きます。「教会はもっと〜なところだと期待していたが、そうではなかった」というわけです。
 確かに、教会は救いの完成の姿にしては不完全で、過ちが多く、時代遅れなやり方をしているように見えます。
 しかし15節に目を注ぎましょう。そこには教会について何と書かれていますか。教会は神の家であり、生ける神の教会です。
教会は生きておられる神の家族、新しい神の民なのです。「家」あるいは「家族」という言葉には特別な響きがあります。たとえ子供が間違ったことをしてしまったり、反抗をすることがあっても、家族はその子を見捨てたり、見切りをつけたりはしません。傍目から見たら、なんでそこまでかばうのかと思うような問題児であったとしても、親にしてみれば子供に変わりはない、という事があります。教会は神の子供たちの家です。父なる神にしてみれば、教会の現実がどうであれ、はやり神の子供たちであり、神の家族であることに変わりはないのです。
 パウロがテモテのいるエペソ教会に宛てた手紙で、最初の1章をついやして神の救いのご計画が壮大な文章で描かれています。その頂点はやはりキリストのからだとしての教会でした。教会こそは、すべてを満たすことのできるキリストが満ちておられるところなのです。
もちろんパウロは実際の教会が様々な問題を抱えていることを知っていました。コリント、ガラテヤ、エペソ、テサロニケ、ローマ、ピリピ、コロサイ。どの教会も何らかの問題を持ち、成長の途上にありました。しかし、神にとっては、教会はご自身の子供たちの家族であり、キリストのからだに喩えられるように、お互いとキリストに深く結びついた共同体であることに変わりはないのです。神はそれらの不完全で道半ばにある教会をご自分のものとして愛し、慈しみ、守り、育てようとしておられるのです。

2.福音の真理を示すもの



そして、福音の奥義の奥義たる所以は、15節の終わりにあるように、この不完全な教会が「真理の柱また土台」だというところにあります。教会は福音が真理であることを証明するものであるということです。
 柱や土台というと、家を支えるものですから、教会は真理を支えるもの、という譬えのように見えます。この福音の真理が、不完全で間違いを犯し得る教会によって支えられているということなのでしょうか。
 教会が間違いのない、永遠不変のものであるかと言われればそうではありません。教会がゆらげば福音が揺らぐ、キリスト教の真理性が失われる、ということでは福音は真理とは言えなくなります。では、どういう意味で、教会は真理の柱また土台なのでしょう。
第一に、不完全であっても神の家族として存在していることによって、神の愛と赦しが明らかにされています。
 教会には立派な大人もいれば、小さな子供も高齢の方もいます。健康な人もいれば病気の人もいます。正しい生活を送っている人もいれば、今なお罪の問題と格闘しながら抜け出ようともがいている人もいます。正直で誠実な人もいれば、時折意地悪で自分勝手な人もいたりします。どんな人であれ、ただ自分の罪を認めキリストを救い主として信じているという理由だけで教会家族に受け入れられます。それよって神の愛、神の赦しが明らかにされ、信じるだけで赦されるという福音の真理が証明されるのです。
第二に、教会の歩みを通して、キリストのいのちが人の生き方を変えることを明らかにします。
 パウロがこの手紙を書いた理由は「神の家でどのように行動すべきか」をテモテはじめ教会の人たちに理解してもらうためでした。エペソ人への手紙を書いた時にも神の救いの計画から初めて、その救いを受けた者としてどう生きるかを具体的に教えています。
 神の愛、赦しを受け取った者は、それで終わりではありません。古い行いを捨て新しく生き方を始めること、神の子供とされた者、神の民とされた者に相応しく生きることが求められました。そのためにキリストのいのちが私たちの中に生き、御言葉が私たちに与えられています。
 私たちの生活、行動、言葉遣いや話す内容、交わりの仕方、他の人への仕え方、権威に対する態度、家族での振る舞い方、そういうところにキリストの性質が少しずつでも表れていくことによって、福音が真理であるということが証明されていくのです。
私たちの生活や教会の姿が完璧かどうかではなく、欠点や弱さのある私たちがキリストのいのち、神のみことばによって生きようとしていることによって、福音の真実が明らかにされます。立派な人、正しい人だけがキリスト教信仰を持って生きることができるのではなく、むしろ欠けがあり、弱い者であるからこそ、福音を信じ、キリストのいのちによって生きていけることが明らかにになるのです。

3.敬虔の奥義とは



教会が福音の奥義であり、教会こそが神の救いのご計画の中で中心にあることを見てきました。神の教会はたとえ不完全であっても、それ自体が神の愛と赦しを表すものであり、そのつたないながらもキリストのいのちを信じ、みことばに根ざして歩もうとする姿、それによって良い実が結ばれていくことによって、福音が真理であることを証明していくのです。
 16節には、一見どんなつながりがあるのかわからない詩が記されています。
 これは当時の教会で歌われていた、良く知られた賛美歌の一節を引用したものだと言われています。おそらくそうなのでしょう。
 パウロはこの詩を引用するにあたって「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です」という導入を記しています。原文のニュアンスは、「全く異論なしに衆目の一致するところは、この敬虔の奥義だ」という感じです。
これはすべてのクリスチャンが何を信じているのかを、当時の賛美歌を引用して示そうとしています。教会の存在、その歩みによって証明される福音の真理、その真理の中身がこの歌に見られるようなものなのです。
 この詩は二行ずつ対になった6行の詩です。
まず沚s目と2行目はキリストご自身について描かれています。「肉において表れ」とは、永遠の神の御子が人となってお生まれになったことを表しています。
 「霊において義と宣言され」とは、その生涯を通して忠実に歩まれ、十字架の死にまで従われたその敬虔さによって義と宣言されたことを表しています。
3行目と4行目は、キリストについての証言がテーマです。御使いたちは、約束された救い主とその救いの御業を心待ちにし、その姿に目を注いでいます。そして、キリストの福音は福音宣教を通して世界中に宣べ伝えられます。福音は「良い知らせ」ですから、それ自体、どんどん伝えられていくべき性質を持っています。キリストの救いは天にある御使いたちにも、地に住む人々にも明らかに示されるものです。
そして5行目と6行目は世に来られたキリストの救いの証言がもたらす素晴らしい結末を描いています。福音が宣べ伝えられることによって、世界中で主イエスを信じる者たちが起こされ、その栄光は天の頂にまで挙げられます。
 これらは福音の内容のすべてを網羅しているわけではありませんが、すべてのクリスチャンが信じていることをうまく表しています。
つまり、真理はキリストが人となって、人々が目で見、耳で聞き、触れることのできる者となってくださることによって初めて明らかにされました。その救いは福音宣教によって広められ、信仰を持って受け入れることで人々のもととなりました。だから、その信仰を持った人々の集まりである教会が、福音の真理を証しするものなのです。

私たちのあり様こそ


人となって来られた救い主が宣べ伝えられ、信仰によってその恵みが人々のものとされました。教会はそのことを証しする存在です。そして、その歩みを通して、福音によって生きる事、神に依り頼んで生きることが可能であること証明します。またそれがどれほど素晴らしいものであるかを示すことができるのが教会なのだと聖書は私たちに明らかにしています。
神は、この不完全で発展途上のクリスチャンたちの群れを愛し、福音の真理をゆだね、この教会を通して福音を宣べ伝え、信じるに足るものであることを示そうとしておられるのです。
 なんということでしょうか。今日の私たちの教会のありようが、福音が真理であることを証しするものだということなのです。
 教会のありよう、交わりのあり方、クリスチャンの生き方が行いによる証しだということは確かによく言われます。 主イエスご自身が「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」と命じています。
またコリント書では「キリストのかおり」ということばを使って、福音の真理が人々に明らかにされることが説明されています。
またテモテやテトス、ペテロといった手紙の中では、福音にふさわしい生き方、行動が「神の教えを飾る」ものとして描かれています。
 香りも飾りも、その素晴らしさを周りの人々に明らかにする、しかも、とても美しいやり方で表すものです。
私たちの教会のありようが、福音をあかしし、素晴らしさを表し、信じるに足るものであることを証明します。そのことの重要性を覚えましょう。
教会は評判の良い病院に喩えることができます。病院には病人が集まります。元気な人が集まっているところを誰も病院だとは思いません。良い病院であればあるほど、大きな病を患った人が大勢集まるでしょう。しかし、良い病院には回復の途中にある人たちや、元気を取り戻す人たちも沢山います。いつまでたっても良くならないと、別な病院に行ってしまうに違いありません。
 そんなふうに教会は誰もがそのままで受け入れられる場所であり、神はそのように人を愛し、受け入れ、赦してくださいます。しかし同時に、新しい命に生きる人たち、回復の道のりにある人たちがいればこそ、教会が信じるに足る場所だと認めることができるのです。
ですから、私たちは互いを受け入れ、新しい人々を招き入れ、神によりたのみ、その御言葉に従って新しい人生を生きることに心を砕き、神の教えを飾る生き方をし、キリストのかおりを放つ者とならせていただきましょう。

祈り


「天の父なる神様。
 あなたが天地の基の置かれる前からみこころのうちに定められた救いのご計画が実現し、主イエス様によって成し遂げられました。
 あなたの御心は、信じた者たちがひとつの神の家族となり、互いに愛し合い、みことばに生きることによって、福音が真理であることを世に証しすることです。
 どうぞ、私たちがあなたに愛され、赦されている者であることをもう一度思い起こさせ、感謝であふれさせてください。そしてあなたが私たちを受け入れて下さったように、互いを受け入れ、新しい人々を招き入れる者としてください。また、あなたの福音に相応しく生きる者であることができるように、みことばを知り、みことばに生きる者とならせてください。そのようにして、私たちのうちに生ける神がおられること、よみがえりのキリストのいのちが宿っていることを証しさせてください。
 イエス・キリストの御名によって祈ります」

(C)Masaki Sasaki