2010年06月20日
第一テモテ3:1-7「次の指導者を探せ!」
人材不足
人材不足や後継者不足は農家や漁師、町工場だけの話ではありません。 日本で最大の所属教会を持つある教団では、全体の10%にあたる教会が牧師のいない教会、「無牧教会」となっており、 このままでは10年後には3分の1近くが無牧教会になる恐れがあると言われています。
保守バプテストの諸教会の中にも長い間牧師がいない状態が続いている教会がいくつかあります。
当然のことながら、私もいつかは引退するか、働き半ばで天国にお先に失礼するか、あるいは別な道へと導かれるかして、北上教会も次の指導者を見つけなければならない日が来ます。私が10年前にここに導かれた時に心に思い描いたことがあります。皆さんにもお話したはずですが、50歳頃までには次の世代の指導者、牧師となりうる後継者を見つけるというのが私の願いです。
どの教会にとっても、今後、次世代の指導者をどうやって迎えるかは非常に重要な問題となってきます。しかし、いくら人材不足だからといってどんな人でも良いというわけにはいきません。
かといって、私たちが自分の好みに合うような人を選ぶのもまた、聖書が厳しく戒めているところです。今日の箇所には指導者の資格というべきものが教えられていますが、それを見分けられるようになることも教会員として必要な力だということを覚えながら学んでいきましょう。
1.求められる資格
第一に、教会の指導者には求められる資格があります。
当時は教会の指導者は「監督」と呼ばれる場合がほとんどでした。ユダヤ人中心の教会では「長老」と呼ばれることが多く、「牧師」という呼び方は意外に珍しくエペソ書に一回出てくるだけです。名前はともかく、教会の指導者になろうと心に定めることは、素晴らしい仕事を求めることだとパウロは断言します。教会指導者の務めは大変価値のある仕事なので、それにふさわしい資格がありました。
2節から7節には15の資格が挙げられています
まず最初の「非難されるところがなく」という事が挙げられています。そして残りの14の項目が、この「非難されるところがない」ことの具体的な内容と見ることができます。あまり順序よくは並んでいないのですが、いくつかにまとめることができそうです。
まず挙げられるのは「ひとりの妻の夫であり」。つまり、結婚関係の健全さということです。当時の世界では夫が何人もの妻をめとる多重婚が行われていたようですが、クリスチャンには一夫一婦制が求められました。ですから指導者はことさら結婚についてきちんとしている事が求められたのです。
現代なら「できちゃった婚」から「おめでた婚」と言い方が変わったように、結婚するときにはすでに妊娠しているカップルが半分以上になっているという状況があります。また、同性愛カップルも認められつつあります。
もちろん、そういう経験をした人たちが信仰をもって教会に迎え入れられることが可能なのは当然ですが、教会指導者はこの点でより高い基準が求められるのです。
つぎに挙げられるのは、御霊の実に特徴付けられた人柄と言えます。自制、慎み深さ、品位、温和といった特質は、生まれ持っての性格ではなく、聖霊によって造り替えられた人の特徴です。3節に挙げられている否定の項目はちょっと極端なほどです。酒におぼれたり、暴力をふるったり、喧嘩好きであったり、物質主義に陥るというようなことは、指導者だけでなくどんなクリスチャンにとっても避けるべきことであるのは明らかです。
そして指導者としての賜物と奉仕の技術、ということが挙げられます。
「よくもてなし、教える能力があり」というのは、賜物としてそういう能力があるだけでなく、実際にそれがよくできることが求められたのです。というのも、基本的に、初代教会は独自の教会堂というものを持ちませんでした。どうやって集まっていたかというと、「家々に集まって」という言葉があるように、信者の家が礼拝や訓練、そして交わりの場となったのです。そういう環境では特に人をもてなすことが大切な能力となりました。
また教えることは、信者が健全な信仰生活を歩むために、福音の内容をしっかり教え、聖書の教えをバランスよく実際的に教える能力は何にも増して重要な技能でした。
2.試される経験
第二に、これらの人柄、賜物と奉仕の技術は試される必要がありました。
10節には執事を選ぶ際に「まず審査を受けさせなさい」とあります。監督の職については直接そういう言い方はされていませんが、4節から7節を見れば、家庭、教会、そして地域社会において、人柄や能力が試されたことが明らかです。
まず4節には、「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている」ことが求められました。
威厳をもって子供を従わせるなんて言うと、時代遅れの頑固親父をイメージする方もおられるかもしれませんが、この言葉自体には、冷たさも子供の気持ちを無視した横暴さもありません。威厳という言葉は品位とか気品という意味も持つ言葉で、2:2にも出てきました。怒りや力で押さえつけたり、無理に従わせるのではなく、信仰に立った霊的なリーダーシップを持って家庭を守り導く姿です。
もちろん、現役の牧師たちも「果たしてどこまで出来ているだろうか」とことある毎に自問させられる事ではあります。現実問題として子供が信仰を持たず教会を離れてしまうケースもあります。
おそらく、ここで言われていることは、何の問題もない完璧な家庭のことではありません。不完全な人間が集まった家族です。問題は起こるでしょう。大事なのは、その時を信仰をもって乗り越えるよう導くかどうかです。
家庭という神が与えた最小単位の共同体で十分にリーダーシップを発揮できない人が、神の家族である教会を導くことができるわけがありません。
さらに6節には「信者になったばかりの人であってはいけません」とあります。これは、教会指導者を目指す人は、一定期間、教会の交わりの中でその人柄や奉仕の能力などが試される必要があることを示しています。そのような機会がないうちにリーダーシップを取り始めると、高慢のわなに陥ってしまいます。社長の息子だからと言って、何の経験も踏むこともなしに会社の跡を継いだら大変なことになります。まして教会を霊的に導く指導者は、どれほど能力があり、立派そうであっても、教会の交わりの中で様々な人と関わり、謙虚に振る舞うことを実地に学んで、初めて指導者として相応しい者と見なされるのです。
また7節には「教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません」とあります。これは、教会指導者を目指すなら、地域社会の中で生きることを学び、実際に教会外の人々と触れあい、そこで一定の評価と信頼を得た人であるべきだということです。
聖書が示すこうした「資格」について、私を含め多くの現役牧師たちが緊張と恐れをもって受け止めています。果たして自分は適格者なのだろうかと自問自答します。そして、こういう基準に合う人は本当にいるのだろうかとさえ考えさせられます。
3.どこで育成されるか
そこで、第三にこういう教会指導者はいったいどこで育成され、見つけ出されるのかということについて考えましょう。
テモテへの手紙の中でパウロが想定している状況は、今日の教会が牧師を捜そうとする様子とは大分違います。
パウロは教会の中で次世代の指導者が見つかるものと考えていました。「監督の職につきたいと思う」人は教会の中に起こされ、またその人柄や賜物が家庭、教会、地域社会の中で訓練され、見極められ、確認されるのです。
今、私たちが次の牧師を探そうとしたらどうするでしょうか。誰か信頼できる他の教会の先輩牧師に依頼して適当そうな人を紹介してもらうか、神学校に推薦をお願いするというようなことになるでしょうか。
ことが上手く運んで誰かが候補とあがったとして、その人がふさわしい人材であることをどうやって見極めるのでしょう。信頼できる神学校を卒業しているか、どんな成績だったか、また実際にメッセージを聞いて見たり、何度かお会いして人柄を見たり、牧会についての考え方などを聞いたりして、何とか人物を見極めようとします。
しかし相手にも生活があるので、あまり長い時間をかけることはできません。その人が家庭でどのような父親として振る舞っているか、若い人であるなら真に謙遜であるか、地域社会の中でどのように受け止められる人かなどということは、残念ながらほとんど知ることができません。
一人の妻の夫であることくらいは分かりますが、「自分を制し、慎み深く、品位があり」などということは、教会の中で実際に様々な困難な問題に直面してみないことには本当のところはわからないものです。
自分自身のことを考えてみても、神学校を卒業はしたけれど家庭の中や地域社会での経験はどう考えても不足していましたし、それ以外の点でもチェックは不十分でした。
ですから聖書は教会の指導者は、どこからか連れて来る者ではなく、その教会の中で育成されるべき者、神の家族の中で育てられた人たちの中から見出されるべきものとしているのです。
監督の職の資格として挙げられているものを改めて見てみると、それらが特別な資格というよりは、すべてのクリスチャンが求めるよう教えられている事の延長線上にあることが分かります。健全な結婚関係や自制心、温和さなどの人柄。過度の飲酒や暴力、喧嘩好き、強欲といったものはどんなクリスチャンでも当然控えるべきものです。だれもがそれらの大切さを知り、それらを求める努力を払っているからこそ、ちゃんと身に付けた人を見極めることも、尊敬を払うこともできます。
教会指導者を見つけることは、サッカーチームのキャプテンを選ぶのに似ています。同じ目標を持ち、同じ練習をし、同じ試合を経験する中で、リーダーシップを持つ者が育つのです。
神の家族の中で
次世代の教会の指導者をどのように見出し、またどのような人物を相応しいと見なすか、私たちはこの聖書の教えをどう受け止めたら良いでしょうか。
2000年近く前の、現在のトルコ西部にあったエペソの教会にパウロが書き送った事は、当時の状況にだけ当てはまるものなのでしょうか。それとも現代でも従うべき原則なのでしょうか。
実際に、聖書が示しているようなやり方で牧師が育てられたり選ばれたりしてきたかは別として、あらゆる時代の教会で、テモテ書に記された資格は、やはり指導者としての聖書的な基準であることが認められてきました。
現代の私たちが見ても、ここにある資格は十分なものだとうなずくことができるものです。
そして教会の奥義を託されたパウロが後継者テモテに最後に書き送るべきこととして書いた二つの手紙は、単に個人的なものではなく、やはり教会のあり方についての神のご計画を指し示すものだったのです。
ですから、私たちはこれらを現代でも従うべき原則として受け止める必要があります。ということは、私たちにとって二つのことを自覚しなければならないことを意味します。
第一に、次の世代の私たちの指導者は、私たち自身の交わりの中から見出されるのだということです。もちろん、その中にはこれから救われる人も含まれます。
今いる人たちか、あるいはこれから救われる人たちの中にいるか分かりませんが、神は私たち自身の交わりの中から次の牧師、次の指導者が生まれるのだということを自覚し、期待し、祈るべきです。
第二に、神が指導者として召した人、そのような思いを与えられた人を見定め、見分ける目を持つために、教会全体が、つまり私たち自身が成長しなければならないことを自覚すべきです。
サッカーチームのキャプテンとしてふさわしいかどうかは、素人なら見た目の良さとや有名かどうかとか、表面的な成績で判断するかもしれませんが、チームのメンバーは別の見方をするでしょう。コーチが選んだからというだけでなく、普段の練習の姿、他のチームメイトとの関わり方、試合全体を見渡す視野、といったものを間近で見て、キャプテンとして認めていくはずです。
人間ですから時には過剰なことを要求したり、好き嫌いで判断してしまうこともあります。ですから、すべての教会員が、指導者の資格を知っているだけでなく、自分達自身が福音を正しく理解し、クリスチャンとして歩むことに真に取り組み、成長を求め、教会全体が成長していく必要があります。
次の指導者なんて10年後に考えればいいとは思わないで、神の家族の中から生まれることを信じて、真剣に願い求めていきましょう。
祈り
「天の父なる神様。
主は弟子たちに言われました。収穫は多いが働き手は少ない。だから収穫の主に働き手を送ってくださるよう祈りなさいと。
そして今日、私たちは聖書を通してその働き人がどこか知らないところからやって来るのではなく、私たちの交わりの中からこそ育てられ、見出されていくのだということを学びました。
どうか、そのことを信じさせてください。いつの日かこの教会家族の中で育った人々の中から、あなたが志を持たせ、次の世代の指導者となるべき人を起こしくださることを期待します。
そのような人が起こされた時に、私たちが相応し目で判断し、認め、尊敬していくことができるように、私たち自身も成長させてください。
人材不足とか、献身者が少ないと言われる時代ですが、そのような事に惑わされず、あなたのみこころを求めさせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります」
(C)Masaki Sasaki