2010年06月13日
第一テモテ2:8-15「神を敬う男女」
光の子とされた男女
「平安美人」という言い方がありますが、平成生まれの女性に言うものではありません。美しさや女性らしさの基準は、現代の基準とは大分違います。 男らしさも女性らしさも時代とともに少しずつ変化するものです。
現代は、男女平等とか性差別の解消とか、雇用機会の均等とか、男女の別をなるべくなくそうというのが建前ですが、それで男女の違いがなくなるわけではありません。
恐らく、これから後もお人形やおもちゃの台所用品を使って遊ぶのはたいてい女の子であり、ヒーローの真似をして戦いごっこをするのは、たいてい男の子です。
そして少年少女の時代を超えるころには、男らしさや女性らしさに磨きをかけようと、体を鍛えたり鏡の前で悩んだりするのです。
しかし、見かけや役割が男女ともに変わってきた平安時代と現代のギャップよりも、もっと本質的な変化を私たちは意識しなければなりません。 神の子どもとされる前と後の、男性らしさ,女性らしさの違いです。
エペソ書には「光の子ども」という言い方がされていますが、私たちはただの光の子どもではなく、光の子どもとされた男女なのです。今日の聖書箇所には神の子ども、光のこどもらしい男性、女性の姿が描かれています。
平安時代の美の基準が現代には通用しないように、神の子とされた私たちには過去の基準は相応しくありません。
1.きよい手を挙げて祈り
まず第一に、男性に対しては「どこででもきよい手を挙げて祈る」ようにと勧められています。
この勧めが意味していることを正確に理解しないと、空気の読めない変わった人と言われるだけの人になってしまいます。
この勧めを正しく理解するために、二つのことを見なければなりません。8節の最初の言葉「ですから」と「怒ったり、言い争ったりすることなく」という文章です。
まず「ですから」についてです。これは当然、7節までの内容を踏まえての言葉です。1節から7節までは、すべての人のために、また国の指導者たちのために祈ることが教えられていました。
そうした祈りは、すべての人が救われるという神の望みと一致するものであり、この世にあっては敬虔さと威厳、平安で静かな生活を送ることに益するものだということが教えられていました。
祈りを変えて行くことが、教会や個人の信仰深さや威厳、落ち着いた生活に益となります。実際、先週の婦人会や祈祷会ではこのことについて改めて学びましたが、その時捧げられた祈りに耳を傾けていると、確かに祈る一人一人の視線が神の視点に引き上げられ、深い祈りになっていたことにとても感動させられました。これが毎日続いたら、どれほど私たちの信仰が引き上げられるでしょうか。
そして二つ目は「威厳」に関係します。
8節の続く言葉は「怒ったり、言い争ったりすることなく」ですが、これは男性が家庭や共同体の中で主導権を持ちたい時に起こってくるものです。
怒るのは、自分の正当性や権威が認めらていないことへの抗議です。そして言い争いはそれらを取り戻すための戦いです。夫婦げんかであれ、政治家の権力闘争であれ、基本的な原理は同じです。
しかし聖書は、神の子どもとされた者が、与えられたリーダーシップ、威厳というものを取り戻す方法としては、怒りや争いはふさわしくないのだと教えています。
神が男性に与えたリーダーシップは 霊的な指導力とも言えるものです。ですから「きよい手を挙げて祈る」ことが敬虔さに根ざした威厳、真の霊的リーダーシップをもたらすのです。
そういうわけで、「どこででも」というのは場所の問題ではなく、どのような場面や状況であっても、力に訴えるのではなく、まず祈ることによってリーダーシップを発揮しなさいという意味と理解することができます。
祈る時に手を挙げるというのは私たちには、ちょっと大げさなやり方に感じられますが、当時の世界では普通に見られたやり方だそうです。しかし、ここで重要なのは祈る者の手が聖いことです。良心に恥じるところのない言葉や行い、そして動機が伴ってこそ、祈りは神の前に届くのであり、男性としても威厳を保つことができるのです。
2.良い行いを飾りとし
第二に、女性に対しては「良い行いを飾りとしなさい」と勧められています。
男性への教えがわずか1節で終わっているのに対し、女性に対しては7倍もの節数を費やして語りかけています。しかも、その内容は結構厳しいものです。そのため、男性に有利で女性には不利だとか、不公平だと感じる方もおられるようです。
そこで不公平だと不満を言う前に、聖書がここで女性に語っていることは何であるかをしっかり理解しましょう。
9節の最初の言葉は「同じように」です。男性に教えたことと同じ目的のためにこの勧めは書かれています。
神の願いと一致した祈りを通して、教会や個人のうちに敬虔さ、威厳、静かな暮らしが築かれていくという教えと、実際の生活とを結びつけています。
そのために、身なりや髪型、アクセサリーといったもので外見を良くしたいという気持ちが強くなりがちな女性に対して、 むしろ「良い行いを自分の飾りとしなさい」と命じています。
一般的に、男性が怒りや言い争いによって自分の力や権威を示したいように、女性は身なりや外見を整えることによって美しさや個性を表したいと願うようです。もちろん個人差がありますし、世代の違いというものもあります。若い世代のファッションは、上の世代から見れば、いつでも派手すぎるか行きすぎているように見えるものです。
ここで重要視されているのは、どういうファッションが許されるかとか、おしゃれはダメなことなのか、というものではありません。神が女性に与えた美しさに磨きをかけるのは決して悪い事ではありません。
教会が一律に服装や外見の基準を示すことは間違っていると思います。但し、現代のファッションは、過去の時代の制約をどう打ち破るか、という方向で発展してきました。それは聖書が示している神の子どもとしての尊厳や真面目さをどう表すかということとは全く異なる基準であることも心にとめて考えて必要があるでしょう。
とにかく聖書は、神が女性に与えた美しさは外見を磨くことではなく、内側から出てくるものだと教えています。
神を敬う者に ふさわしい言葉、行動こそが、真に女性を美しく飾るものです。それが神の子とされた女性の新しい美の基準、女性らしさの基準です。
教会にあっては、着ている服や身に付けているアクセサリーや新しいダイエットの方法などが話題になることはあったとしても、それが主な関心であることは、おかしなことだと聖書は教えているのです。
クリスチャン女性は、神が与えた女性としての美しさや素晴らしさが、見かけではなく、信仰に根ざした言葉や行い、態度に表れるのだということを自覚しなければなりません。見かけは美しくとも、悪臭のする花にはなって欲しくありません。
3.女性の立場について
第三番目に、11節から15節に記されていることを注意して学びたいと思います。ここでは教会や家庭における女性の立場や秩序の問題が取り上げられています。
「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」とあります。
教えるというのは、聖書を教えること、支配するとは集会の指導や教会のリーダーシップを取ることを指していると思われます。家庭にあっては、妻が夫を支配すること。今日的な言い方をすれば「妻が夫を尻に敷く」ことです。
これに対して、パウロは女性が指導的な立場に立つよりは、言葉を慎み、従順な心で学ぶことを第一にしなさいと言っているのです。
この言葉を持ってキリスト教は女性の立場を無視していると解釈するのは慌てすぎです。実際、パウロはプリスキラ、ユウオデヤ、スントケといった女性たちを同労者として認めていましたし、教会の歴史の中で女性が宣教の働きを担うことは、しばしばありました。テモテ自身も幼い頃から母親と祖母から信仰を導いてもらいました。
ですから、この命令は女性蔑視ではなく、また絶対的なものでもありません。十分に備えられていないままで女性が指導的な立場に立つことを戒め、むしろ良く学ぶことが勧められているというふうに理解できます。
パウロのこうした勧めの背後には、天地創造の時に神が示した秩序と、最初の女エバの失敗のことがありました。
神は人をお造りになるとき、最初に男を造り、それから女を造りました。優劣や価値の違いではなく、順序として男が先に立つ者、女が続く者、とされましたが、男と女は支配権を巡って競い合う関係ではなく、補い合うべきものとして造られたのです。
もう一つパウロが挙げている根拠は、蛇に惑わされて罪を犯したが女の方だったから、というものです。
禁断の実について直接神から教えを受けていたのはアダムでした。ですから、エバは禁断の実についてよく知らないままで誘惑され、食べてしまいました。彼女はこのことについてもうアダムを教えたり導いたりするような立場にはなかったにも拘わらず、アダムに与え、つまり食べても大丈夫だと説得するか言いくるめて食べさせてしまったのです。これは、立場をわきまえないで指導する者になることの問題を示す具体的な例ということができます。
そして最後の15節は、もっと分かりにくいです。特に「子を産むことによって救われる」という文章は、研究者によって解釈は分かれ、これだと断定することが難しい文章です。
ただし、はっきりしていることはあります。 女性に求められる性質は、慎み、信仰、愛、聖さだということです。男性のリーダーシップが横暴であってはいけないように、主にあって与えられた女性の自由と権利も、神の子どもに相応しい特質を保ったものであるべきなのです。
真に成熟した男女
さて、決して十分とは言えませんが、神の子とされた男性、そして女性について、それぞれの「らしさ」をざっと見てきました。
後半部分は少し分かりにくい箇所ではありますが、中心的な考えかたははっきりしています。
聖書的な男らしさとは、敬虔さに根ざした威厳、真の霊的リーダーシップであって、それは、争いや力ではなく、まず祈るということによって培われます。
そして聖書的な女性らしさは、神を敬う者にふさわしい言葉、行動こそが、真に女性を美しく飾るものです。それは外見に気を遣う以上に、内面に気を遣い、内側から出てくる行動に気を遣うことによって培われます。
これらは単に男性や女性の魅力の話ではなく、男女それぞれの霊的な成熟の仕方を指し示しています。
そしてこの霊的な成熟に向けた励ましは、3章の次の世代の教会指導者、牧師や執事を選び出していく作業の土台となっていくのです。
霊的な成熟は、教会の指導者になる人たち、たとえば牧師や執事などだけに求められるものではありません。むしろ、教会に属するすべての男女が、それぞれの立場で霊的に成熟することを目指す中で、次の教会指導者が見出され、育てられていくものなのです。
そして霊的に成熟した男、また女であることは何より自分自身や家庭が落ち着いた生活をするために必要です。
ですから、私たちはそれぞれの立場で、男性は男性らしく、女性は女性らしく、外見だけでなく内面から霊的に成熟していくことを目指していきましょう。
もし、今まで何か問題があると怒りを表したり、争ったりすることで解決を図ろうとして来たのなら、神のみこころを求め、知恵が与えられることを求めて、「まず祈ろう」と呼びかける者になりましょう。
リーダーシップを取ることを恐れたり、避けていたりするなら、空威張りをするのではなく、主への祈りと信頼に根ざすことをまずは求めましょう。
もし、今まで人にどう見られるか、流行に乗り遅れていないかといったことに気を遣っていたなら、それ以上に、神を敬う者として相応しい言葉、行い、態度が出来ているかどうかに気を遣う者になりましょう。
結婚関係の中で、相手に聖書的な男性らしさ、女性らしさが見えず、イライラする事があるかもしれません。相手に要求し批判すること、これほど楽なことはありません。しかし、それは一番解決からほど遠いことです。むしろ、自分自身が目指すべきことを第一に求めて行くこと。相手のためには忍耐深く祈り、たとえ思うように変化しなくても待つことです。それが出来るのは夫であり妻だけです。
私たちは互いに欠けの多い人間ですが、霊的な成熟を目指すなら、家庭も教会も光の子とされた男女に溢れる魅力的な場となっていくことでしょう。
祈り
「天の父なる神様。
あなたは私たちが神の子どもとされたことで満足してしまうのではなく、男女それぞれが、光の子どもに相応しい男女へと、霊的な成熟を目指すことを望んでおられます。
私たちは欠けの多い者です。霊的な成熟にはほど遠いとさえ思えるものですが、あなたの助けによって、成長させてください。なによりも、私たちが祈ることで、また外見より内面に気を配ることで、それを目指させてください。いつの日か、あなたに似た者へと変えられることを信じて、忍耐する力も与えてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります」
(C)Masaki Sasaki