2010年05月30日
創世記2:1-17「この世の務め」
荒野の旅路で
創世記はいつ、どんな状況で書かれたでしょうか。天地創造の物語が書かれていますが、当然リアルタイムで書かれたものではありません。
創世記はモーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出し、約束の地へ向かう荒野の旅路の中で記したものです。人々は来る日も来る日も照りつける太陽の強烈な日差しに焼かれ、のどの渇きに耐え、毎日甘ったるいマナを食べて旅を続けなければなりませんでした。彼らは自分達が旅を続ける意味を絶えず思い返す必要がありました。
今日開いている2章は、神が天地創造の働きを終え7日目に休まれたという記事で始まります。1章では、何万年とか何億年というような人の感覚を超えた時間の中ではなく、6日という分かりやすい区切りを用いて、神の創造の御業を凝縮して示しました。そして2章で改めて 人間に焦点を当て、神のご計画を明らかにしようとしています。
焼け付くような大地ばかりが目に入る旅をしていた民にとって、色鮮やかな世界の創造の物語や豊かな川の流れ、わき水で潤された大地、実り豊かな園の話は人々の想像をかき立てたことでしょう。そして、そのことこそが、彼らの旅を続ける意味を考える上で欠かせないことだったのです。私たちも時として荒野を旅しているような気分になりますが、 聖書に従って、神の創造の大きな御業に目を向けながら、自分達の歩みの意味を考えてみましょう。
1.神の代理人
まず第一に人間は神の代理人として造られています。
1節と2節には、神が天地創造の働きを全て終え、7日目には「休まれた」ということが記されています。この「休む」という言葉は後の「安息日」の語源と繋がっています。そして神が7日目に休まれたという事が、一週間の中で、6日働き、1日を安息日とするというリズムの根拠の一つになっているのです。
しかし、イエスは神が7日目に休んだとは言っても、実はずっと働いておられるということを明言しています。6日間繰り返されてきた「夕があり、朝があった」という言葉が7日目には見あたらないことも、神のわざが決して終わってはいないことを示しています。
ですから、神は自分が休むために人間を造って代わりに仕事をさせているということではないのです。では、人が神の代理人として造られたとはどういう意味でしょうか。
1:31に遡ってみますと、神が6日間の創造のわざを終えたときに、すべてをご覧になって「それは以上に良かった」と言っておられます。それなのに2:5では神が「雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったから」木も生えておらず、草も芽を出していなかったとあります。
もちろん、地上が全くの不毛であったという意味ではありません。人間が創造される前にすでに植物を餌とする動物たちが造られていますから、彼らのため、また空気中の酸素を造り出すためにすでに植物は活動していました。
ここで描かれているのは、地上があたかも人間の登場を待っているかのようだ、という事です。川の水やわき水によって潤った土地ではありましたが、人の手が入ることを待っていました。
それは神の創造のわざが不完全だとか、未完成だという意味ではありません。少なくともこの世界のある部分は人の手が入ることでうまく機能するものとして造られているのです。もちろん、神は人の手を借りなくともうまくやれます。 しかし、神は人のために造られたこの世界を、人間自身が自ら守り、耕し、管理することでさらに神の祝福を味わい、喜べるようにされました。
そこで神は人をお造りになるとき、他の動物と同じような材料で造りましたが、ご自身の息を吹き込んで特別な存在としてお造りになりました。人工呼吸のことを想像すると良いかもしれませんが、息を吹き込むことは、相手にいのちを与えることです。神は人を生きたものとするためにご自分を与えたと言えます。
1:26〜27では別の言い方がされています。人は「神のかたち」に造られました。そして神の創造された世界を満たし、従わせ、支配するようにと命じておられます。もちろん、支配という言葉には、罪の影響下にある今の私たちが考えるような不公平、抑圧、搾取といったことは含まれていないのは言うまでもありません。 まさに王である神の代理として振る舞うことを求めているのです。
2.祝福に満ちた世界
第二に、人が置かれた世界は祝福に満ちた世界です。
これは荒野を旅する民にとっては重要な視点でした。
神は人の暮らすべき場所としてエデンの園をつくられ、人をそこに連れていきました。そこでは食べるのに良い木の実や果物が豊かに採れました。また、そこが特別な場所であることを象徴する二つの特別な木が生えています。
1つの豊かな川の流れが園全体を潤し、さらに川下へと続きます。川の流れで肥沃になった土地には金やしまめのうといった貴金属や鉱物資源が埋蔵されています。これらはやがて人が知恵と技術を身に付けた暁には有効に活用できるものとして備えられていたものです。もちろん、ここには書かれていない他の多くの資源がすでに地下に眠っていたことでしょう。 エデンの園を中心とする人を取り巻く世界は、ただ美しいだけでなく、豊かで大きな可能性を秘めた場所であり、まさに人によって耕されることでその価値が明らかになっていく世界だったのです。
それに比べ現在の地球環境、社会や経済の状態は決して良いとは言えません。環境破壊と温暖化が進み、異常気象だと言われます。石油だけでなく、水までもが不足しています。コンピューターや携帯電話がどんどん造られるようになって貴重な鉱物資源も高額で取引され、世界各国が奪い合っているような状態です。それなのに社会や経済もさっぱり良くならないし、信じられないような事件や犯罪が繰り返され、戦争の危機も高まっています。
今の世界はエデンの園の祝福された状態と比べると、明らかに人間の欲望が生み出した数々のゆがみによって傷つき疲れ、奪い去られ、「地は呪われてしまった」という言葉がぴったりです。
それでも神が人間のためにこの世界に備えてくださった祝福は今でも基本的には守られ、与えられているのではないでしょうか。資源の枯渇だ、食糧自給率だ、飢餓問題だとか言いますが、残り少ないと言われる様々な資源も、人が強欲さを控え、きちんと分け合い、技術や知恵、お金を賢く用いるなら解決できない問題ではないと言われます。
資源の問題だけでなく、神が造られた良きものは、目を上げて見渡せばあっちにもこっちにも見つかります。荒野を旅する人々には焼けた大地しか見えなかったかも知れませんが、聖書を通して神の造られた世界の素晴らしさを思い、今自分達が目指している約束の地も、「乳と蜜の流れる地」と呼ばれるほどの豊かな地であることを思い、気持ちをそこに向けることができました。
私たちも、今目の前に見えている荒れた土地のような現状だけでなく、神が造られた祝福に満ちた世界、人の罪ゆえに何かと問題も多いけれどもなおも恵みによって保たれている神がお造りになった良きもの、美しいものに目を上げて見渡すべきなのでしょう。 世の中捨てたもんじゃない、この世界は素晴らしいと主の恵みを信じる故に肯定的に捉えることは私たちの生き方を変えていきます。
3.人に与えられた務め
第三に、神は人にこの世界の管理を委ねました。
1:28では「地を従えよ。…すべての生き物を支配せよ」とありますが、2:15には「そこを耕させ、またそこを守らせた」とあります。神は人をご自身の代理人としてこの世界をお任せになりましたが、具体的な仕事としては 耕し、守るという仕事だったということです。
農業が重要な仕事で、他は価値が低いということではありません。大事なことは、人が神の代理人として世界を支配するとは、どこかの国の横暴な専制君主のようにふるまうことではなく、この世界を守り育むことです。
もちろん、神に委ねられた仕事は自然を相手にするものだけではなく、人間自身を相手にするものも含まれます。子どもを養い育てること、教育すること、病気を癒したりケガからの回復を助けること、弱った人を支えること。
社会の底辺といわれる境遇に置かれた人たちを支える仕事もあります。若い人たちに知恵や経験を伝える仕事もあります。また、人の生活のための基盤を整えたり維持したりする仕事もあります。家や道路、電力やエネルギーの供給、新しい技術や道具の開発。
すべてが今の社会で正当に評価されているとも限らないし、中にはボランティアとして行われ、給料や報酬は受け取れないものもあるでしょう。 神の造られた世界は多様性に満ちているので、この世界を守り育む仕事、また癒し回復する仕事もまた多種多様です。
さて、この視点で今の自分の仕事や社会での役割を見つめてみると何が見えるでしょう。 どんな職種、どんな役割であれ、神の造られた世界をより良いもの、より美しいものにすることに一役買っていると思えるなら幸いです。
しかし、人が神の代理としてこの世で務めを果たすことには、誘惑が伴います。
神はエデンの園の中央にある「善悪の知識の木」について「食べてはいけない」という命令を与えています。
善悪の知識の木といっても、アダムとエバは、善悪の判断が出来なかったわけではありません。神のことばに従うことが良いことで、背くことが悪いことだとは判断できたのです。もちろん、その木の実が白雪姫の食べた毒リンゴのように、それ自体に毒や呪いが込められていたと考える必要はありません。 むしろ、それは人が神によって定められた限界を超えて知識や力を欲しがることへの戒めだったということができます。
仕事には競争がつきものですし、権力争いのようなものに巻き込まれることもあります。そこでは、ねたみや貪りの誘惑が避けられません。大企業での派閥争いだけけでなく、小さな職場、数人の作業グループの中でさえ、争いや自分の分を超えたものを欲しがる思いが起こってきます。
私たちは、人の果たす分と神がなさる分を区別すると同時に、今自分が果たすべき分はなにかをしっかり見極め、謙虚に務めを果たしていく必要があります。
私のなすべきこと
天地創造の視点から、人の働くことの意味を考え、自分自身の仕事や役割を考えていく、というのはちょっと話が大きすぎるように感じられたでしょうか。
けれども、子どものころ親に「大きくなったら世の中の役に立つ人になりなさい」と言われたことがある人も多いのではないでしょうか。
仕事をするなら、ただ食べて行ければいい、というのではなく、何か人様の役に立っているという実感が欲しいというのが正直な気持ちだと思うのです。誰かの役に立ったり、何かを生み出したり、美しく整えることに喜びを覚えます。それらは神が人に与えた思いなのです。
もちろん、今のような厳しい時代には「食べていけるだけでもありがたい」という気持ちは確かにありますし、それが間違っているとは思いません。
しかし私たちは天地の造り主なる神を知りました。そして神はこの世界がどのようにして造られ、祝福に満ちたものとされ、その中で人にどんな役割を与えたかを教えています。 だとするなら、それらの教え、神のご計画と関連づけて自分の仕事、生き方を意味づけていくのは当然のことではないでしょうか。まさにその理由で天地創造と最初の人間に与えられた務めの話されたように思えます。
もちろん、生きて行くだけで精一杯で、そんなことを考える余裕がないという人もいます。その感じや焦り、将来への不安、あるいは諦めといった感じも分かります。
しかし、荒野の旅をしていた人たちも余裕があったわけではありません。40年の荒野の旅で一世代が完全に死に絶えるほどに過酷な旅でした。歩いても歩いても目的地にたどり着かないもどかしさを感じることもあったでしょう。だからこそ、彼らは自分達の生きる意味、歩き続ける意味を確信する必要がありました。
まず私たちが生きている世界は、神が造られた世界であって、たとえ人の罪によって傷つき、問題が山積していても、なお神の恵みのうちにあることを覚えましょう。
それは、私たちが自分だけで生きているのではなく、神の御手に支えられて生きていて、どんなにきつい時でも、その神の御手からこぼれ落ちることはない、という人生観の基盤を与えるものです。
その上で、この世での今の自分の務めを神に委ねられた、この世界を守り、耕す働きに一役買うものとして意味づけ直していきましょう。自分の仕事がどういう形で神の造られた世界と人々に貢献しているのか考えてみましょう。仕事の内容や役回りによって、貢献する相手が世界を又にかけている場合もあれば、ごく身近な人たちへのものという場合もあり、いろいろです。
なんであれ、神がこの世界を造り、この世界とそこに生きる人々の役に立つようにと自分を生かしていてくださっています。そして神は私たちを祝福し、さらに私たちを通して恵みや回復をこの世界に与えようとしておられます。
祈り
「天の父なる神様。
私たちが生かされているこの世界が、あなたの造られた世界であり、あなたの恵みと祝福が注がれていることを感謝します。
また今、私に与えられている務めや状況があなたからのものであることを信じます。それを通してあなたのみわざを行うものであることを確信させてください。
私たちの手の業が、あなたの造られた世界をより良いものとし、人々に役立つものとなりますように、私たちの働きと仕える心をお守りください。
この不況下で仕事を求めている人には相応しい務めをお与えくださいますように。そしてあなたの祝福が私だけでなく、周りの人たちにも及ぶように、どうぞ私たちをお使いください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります」
(C)Masaki Sasaki