2010年05月23日
ヨハネ14:16-21「内に住まわれる主」
もう待たなくていい
主イエスは弟子たちに「わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」と言われましたが、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊がくだり、教会が誕生して以来、私たちはもはや聖霊の到来を待つ必要がなくなりました。聖霊はすでに来てくださり、信じる全ての者の内に住まわれるからです。
ペンテコステとは「五旬節」という意味のギリシャ語で、使徒の働き2章に出てくる出来事が起こった日のことを指しています。
過越しの祭りから7週目に行われる「七週の祭り」のことを新訳時代には7週目の後、つまり50日目という意味で「五旬節」と呼びました。
その日、イエスの言葉を信じて祈りながら待っていた120名ほどの弟子たちのいた部屋が突然大きな風の音に包まれました。そして聖書によれば「炎のような分かれた舌」が表れ、弟子たちの上に留まります。その時弟子たちは聖霊に満たされ、今まで話したことのない外国の言葉で福音を語りはじめたのです。これが教会の誕生です。
このあまりに印象的な出来事と、私たちクリスチャンが経験することのあまりの平凡ギャップを感じ、聖霊がくだるとか、聖霊に満たされる、ということが経験的に理解できない場合があるようです。そこで今日は、主イエスご自身が聖霊について約束されたことを学んでいきたいと思います。
1.遣わされた聖霊
第一に聖霊は父なる神のもとから、すべてのクリスチャンに遣わされています。
主がこの話を弟子たちにしたのは、最後の晩餐でのことでした。イエスはこの最後の晩餐の時に、残された時間の中でありったけの愛を込めて弟子たちに接し、教えています。この食事の後ですぐにゲッセマネの園に移動して祈り、それからユダの裏切りによって祭司長たちに捕らえられることをすでに知っておられたからです。
そして弟子たちが恐れのあまり散り散りに自分のもとから離れ苦しむこと、ご自身もまた裁判の席で酷いしうちをうけ、あざけられ、苦しめられ、ついには十字架で最期を迎えることになると知っておられました。その時弟子たちが感じるであろう酷い後悔の念や孤独、恐れと不安を想像することが出来ました。
彼らは主が十字架につけられて殺されたとき、またよみがえった後に天に挙げられるとき、取り残されたり見捨てられた感覚を抱くこともご存じでした。
しかし主は、決して彼らが見捨てられるわけでも、取り残されるわけでもないこと知っていて欲しかったのです。
主イエスは、彼らのもとを離れなければならない時が来たのを知って、ご自分の代わりの聖霊を父なる神に求めました。その方は天に挙げられるご自分の代わりにいつまでもクリスチャンたちと共にいることになります。その方は「助け主」「真理の御霊」と呼ばれます。
「助け主」とは「傍らに立つ者、弁護する者」という意味の言葉が用いられています。主イエスが弟子たちと共に歩まれた日々を思い起こせば、主がいつでも弟子たちのそばにいて、弁護してくださり、助け手くださる方だったことが分かります。
律法学者や祭司長たちが難癖をつけて来たときもイエスは弟子たちをかばました。会堂から追放された盲人の友人となり、嵐にもまれて恐れている時に彼らを助けました。
イエスが捕らえられるとき、弟子たちはこのまま去らせて欲しいと願い、かばいました。
また聖霊は「真理の御霊」と呼ばれます。人々に真理を教え、真理に導く方という意味です。そして主イエスもまた弟子たちにとっては、真理に導く方でした。
聖霊がなさる助け、導きは、主イエスご自身が地上におられた時に弟子たちになさったことと同じものなのです。主を知らない人にとっては聖霊とは見ず知らずの方かもしれませんが、弟子たちが聖霊に出会うときには、良く知っている方だと思えるのです。ですから後のクリスチャンたちは、聖霊のことを「イエスの御霊」とか「主の御霊」「主の霊」というふうに、イエスご自身と結びつけて呼ぶことができました。聖霊の助けや導きを、主イエスご自身の助けや導きと見なすことができるのです。
この聖霊が、父なる神のもとからすべてのクリスチャンに遣わされるのです。
2.うちにおられる主
第二に、聖霊はクリスチャンのうちにおられる方です。
17節の終わりに「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」とあります。
聖霊はただそばにいてくださるというだけでなく、クリスチャン一人一人の心のうちに、そして交わりの中にいてくださいます。これをクリスチャン用語といいますか、神学用語として「聖霊の内住」という言い方をします。
クリスチャンのうちに聖霊が住まわれることは、聖書のあちこちで教えられています。
異邦人のコルネリオがペテロを通して信仰に導かれた時「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けた」と言われました。
ローマ8:9には「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。」とあります。この「もし」は「いるかどうか分からないが、いるとしたら」という意味ではなく「神の御霊があなたがたのうちに住んでいるのですから」という意味の「もし」です。すべてのクリスチャンのうちに聖霊が住んでおられます。
エペソ1:13では、聖霊の内住が、変わらない救いの保証、確証であることをこう述べています。「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」
聖霊が私たちのうちに住んでいてくださることは、イエスの約束ですから、私たちはそのまま信じるべきなのですが、実際問題として「どうしたら聖霊が住んでいてくださることを確信できるのか」という疑問や悩みを持つ場合があるのも事実です。そして聖霊が住んでいてくださることを確信できることは、クリスチャン生活が生き生きとしたものであるために大切な事だと言えます。
この問題を考える時にしてはいけないことがあります。それはペンテコステの出来事と自分の体験を比較することです。外国語で話し始めるとまではいかなくても、何か特別な体験がないと聖霊を体験していないと思い込む危険があります。
主が聖霊について教えていることは、私たちのうちにおられ慰めたり弁護したり、真理に導くことです。ですから、私たちが聖書を読んだり学んだりして真理に気づくなら、それは聖霊がうちにおられることの証拠です。また、私たちが自分の罪に気づかされ悔い改めへと心が動かされるなら、それは内におられる聖霊が導いている証拠です。
心の中で葛藤がありながらも、神に従いたいという願いがあるなら、それは聖霊の思いが私たちの思いとなっていることです。霊的に成長したり教会で奉仕や役割を果たす力、御霊の実を結ぶこともまた聖霊がおられるしるしです。それらは、ペンテコステでの特別な出来事にまさる多様で豊かな聖霊の内住を確信させるものです。
3.ご自身を表す
第三に、聖霊の内に住んでくださるということは、主イエス・キリストが私たちの心に住んでくださる事と密接に関係しています。
18節と19節の中で、イエスは「しばらく見なくなり、あとで戻って来てまた見えるようになる」ということをおっしゃっています。
よみがえった主イエスと再びまみえることで、失意と恐れの中にあった弟子たちは息を吹き返します。主イエスのいのちによって生きたものとされるのです。
しかし、またしばらくするとイエスは天に挙げられます。けれども彼らは見捨てられて孤児になるのではありません。イエスの代わりに遣わされる聖霊が、いつまでもともにいてくださいます。その聖霊の助けと導きは、イエスご自身がなさるものと同じものです。クリスチャンは聖霊の助けと導きのうちに主イエスご自身の御手を感じ取ることができます。
イエスが天に挙げられてからペンテコステまでの間、弟子たちは主の約束を待ち望みながらも、「見よ。世の終わりまであなた方とともにいます」という約束と天に挙げられ雲に包まれて見えなくなってしまった主のお姿とのギャップの中に置かれていたことでしょう。もちろん、それでも彼らはイエスが死を打ち破ってよみがえった方であることを知っていましたので、その約束を疑いはしなかったでしょう。
しかし、実際に聖霊が与えられた時に、彼らはこの地上に取り残されたのではなく、主イエスがともにいてくださることを実感するのです。
さらに21節を見ると、私たちクリスチャンが主イエスに対してどう応えていくかによって、主が共におられるという経験のさらなる深みへと向かうことができることが分かります。
主イエスを愛し、そのみことばに忠実に歩もうとする人は、「わたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します」と約束されています。
聖霊が心の中に住んでくださるのは、すべてのクリスチャンに平等に与えられた特権であり保証です。しかし、うちに住まわれる聖霊を通して父なる神とキリストの愛を実感し、キリストがともいてくださることをありありと体験できためには、私たちもまた主に愛を向けなければなりません。それは夫婦が互いに自分を与えあう時に他では得られない特別な愛で結びつけられるように、主を愛し、主のみことばに従順であろうとする人が味わうことのできる特権なのです。愛こそは神との関係の基礎です。だからこそ「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(第一ヨハネ4:8)とも言われるのです。
そして聖霊は、私たちがそのように神を愛すること、キリストを信頼し従順であることができるように助け、導く方でもあるのです。
愛と力の源
これらのことからどう言えるでしょう。ペテンテコステの日に主の約束に従って注がれた聖霊こそは、私たちの愛と力の源です。
この方が私たちのうちにいてくださることで、私たちは神の愛を知り、真理を理解し、自分の罪に気づき、悔い改めへと向かうことができます。
この方が私たちのうちに住んでいてくださることで、私たちはより主を愛し、従順であろうとすることができます。そうしてより深く神の愛を知り、主イエスが日々ともにいてくださることをありありと体験しながら生きることができるようになります。
私たちがしなければならないことは、ペンテコステの日に弟子たちが祈ったように、聖霊が降ることを待ち望むことでしょうか。
そうではありません。あの日以来、聖霊は主イエスを救い主と信じるすべての人のうちに住んでくださっています。必要なのは、心のうちに住んでおられる聖霊を信じ、聖霊の与える助け、導き、慰めに心を開くことです。
聖霊はみことばを通して私たちに働きかけます。聖書を読み、学ぶことなしに聖霊の働きを期待することはできません。もちろん、私たちが聖書を開くことすら難しいと感じる程に落ち込んでいる時も、聖霊は私たちを見捨てることはありません。私たちのために声にならないうめきとともに執り成し、弁護してくださいます。
でもそれは緊急時の応急処置のようなものです。いつかは酸素マスクや点滴の管を外す時が来るように、私たちは普段の生活では、みことばを読み、学び、思い巡らし、聖霊が何を語りかけているか、どんな慰めや導きを与えようとしておられるのかに気をつけている必要があります。
弟子たちはいつでも主の愛と助けの中にありましたが、彼らが特に主イエスの愛を感じ取ったのは、主のために何もせず、自分のことばかりしていた時ではなく、主と共に足をホコリだらけにしながら旅をし、主の教えを学ぼうとくらいつき、主の言いつけを守って歩んでいる時でした。失敗が許されないということではありません。弟子たちは多くの失敗をしましたが、その度に主は赦し、そこから新しい知恵、新たな真理を見させてくださいました。
そのような愛と慰め、そして力と導きを私たちも、この生活の中で聖霊を通して頂くことができます。聖霊の力は、どこか特別なところにいって特別な訓練や経験をした人だけがもらえる特殊なものではありません。もしそのうようなものだったら、きっと弟子たちは主イエスに捨てられた孤児になったような気にさせられたことでしょう。
聖霊の力、慰め、助けは私たちのうちにすでにあります。その取り扱いの中に、私たちは主イエスご自身の愛の御手を感じ取ることができます。
主を愛し、みことばに従順になることを目指し、より深く助け主を感じ、主ご自身を体験する者となりましょう。
祈り
「天の父なる神様。
主イエス様の願いによってあなたが約束された助け主なる聖霊は、ペンテコステの日以来、すべての主を信じる者たちに注がれてきました。
私たちがそのことを実感できなかったり、十分に聖霊の力と助けを自分の生活に活かしきれなかったとしても、間違いなく、あなたは私たちに救いの保証として聖霊をくださいました。私たちは、あなたの御言葉の約束を信じます。
しかし、どうかそれ以上に、聖霊を通して与えられる主イエスご自身の愛と慰め、助けと導きを味わう者としてください。聖霊の助けによっていっそう主を愛し、御言葉に従順であることを目指す者としてください。そして日々の生活の中で父なる神様と、御子イエス様、聖霊様の交わりのうちに生かされていることを十分に味わうことができるようにしてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。」
(C)Masaki Sasaki