†「心を痛める神の恵み」

Date 7月 25, 2010

聖書:創世記6:1-8

導入 地を満たせ

神が人類を創造された時、祝福して言われました。「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を従えよ。」

現在、その言葉通りに人口が爆発的に増加しています。イエスが生まれた頃の全世界の人口は2億人くらいだったと考えられていますが、2000年後の現代は60億人を超えています。人類はあらゆる知識と技術を駆使して宇宙の果てから遺伝子の内部にまで貪欲に調べ上げ、利用方法を探しています。しかし、それが神の意図された美しく、祝福された世界の姿であるかどうかは大いに疑問符がつくところです。

神が天地を創造された時、「生めよ。増えよ。」と言われたのは、食糧不足や水不足、人口過密による衛生悪化や犯罪の増加、そして資源を奪い合うための戦争などを思い描いてのことではなかったはずです。

今日の聖書箇所を読む時、一人でも多くの人が悔い改めて神のもとに帰ることを待ち望んで、悪人でさえも滅ぼさずにいる神が、人類創造を悔やみ、全地から人間を消し去ってしまおうと決意なさる姿に、私たちは戸惑います。そしてノアの家族はなぜ主の御心に適って救われることができたのかと考えさせられます。

今日は、大洪水前の時代とよく似た状況の中にある、いまこの時に、主の心に適った者となるとはどういうことなのかを見つけることを目指して学んでいきましょう。

1 失われた神を畏れる心

ノアの洪水と言えば、クリスチャンでなくても聞いたことがあるほど有名な話です。地上に悪が増大したため、神は世界を大洪水によって滅ぼしますが、ノアの家族と動物たちを箱舟に乗せて救ったという話です。

人類が滅びなければならなくなったほどの悪とは一体なんだったのでしょうか。

1節〜3節には、人々の生活から神を畏れる心が失われてしまった様子と、それに対する神のお考えが記されています。

天地創造の頃から洪水前の時代までどれほどの時間が経過したか、はっきりしたことは分かりません。ノアの洪水の年代や規模についてはいろいろな説や科学的、考古学的な研究がありますので、興味のある方はお調べになってみてください。

今日私たちが注目したいことは、2節の「神の子ら」の行動です。

「神の子ら」とはどういった者たちのことなのかについても、諸説あります。言葉そのものの意味は、天使を表す言葉が使われているのですが、天使が人間の女性をめとるというようなことが本当に起こりうるのか、聖書はあまり多くを語っていません。

私自身が有力だと思っている解釈は、カインによってアベルが殺されたあとで、アダムとエバの間に生まれたセツの子孫のことだというものです。

カインの子孫が技術や芸術を発展させながらも、どんどん神への畏れを失っていく中で、セツの子孫は神を畏れ祈りを捧げる者たちとして描かれています。

いずれにしても「神の子ら」は神を畏れ敬い、従うはずの者たちでした。ところがその中から、美しい娘たちを、自分の好みで選んで妻にするような者が出始めたのです。

現代的な感覚でいうと、綺麗な女性を好きになって結婚相手に選ぶことはそれほど罪深いことのようには思えないかも知れません。ここで問題になっているのは、結婚という人生において最も重要な事柄について、神のみこころを訪ね求めるよりも、自分の好みを優先するようになってしまったことにあるのです。

使徒ペテロはこの洪水前の時代のことを「不敬虔な世界」と呼んでいます(Ⅱペテロ2:5)。神を畏れ敬うはずの人たちが、人生の事柄について神に問いかけることをしないで済ませるようになることが、不敬虔なのです。主はそのような世界に対して、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ」と言われます。

本当の罪深さは恐ろしい犯罪を犯すことにあるのではないのです。私たちは肉に過ぎない者、つまり限界があることを知って、神がくださるいのちの御霊に支えられて生きるはずの者です。その私たち人間が、自分の限度を超えて神のように振るまい始めた傲慢さが問題なのです。

2 その心に計ること

その傲慢さ、不敬虔さは地上に悪を増大させることになりました。

5節に飛びますが、そこには洪水前の世界の罪の性質が印象的な書き方で記されています。

「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった」

この表現は天地創造の記事の締めくくりの言葉を意識しています。1:31で天地創造の働きを終えた時にこう記されました。「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」

しかし、洪水直前の世界は、神が地上をご覧になると、それは非常に悪かったのです。

それがどれほど悪かったかというと、人が心に計ることが「みな」「いつも」「悪いことだけに」傾くということなのです。

「心に計ること」とは、「かたちづくる」という意味の言葉で、心で何かを意図したり、目的を持つことを表すものです。ちょうど陶器師が粘土をこねながら心の中で形造るものを思い浮かべ、それに向かって手を動かし始めるようなものです。

陶芸のまねごとをしたことがありますが、確かに粘土で形をつくる前に、心の中でこういう感じの湯飲みにしよう、と思い描きます。それと同じように、具体的な行動を起こす前に心の中で何かを目指し、計画するものです。

そんなふうにして人が心の中で思い描く目的や行動が、いつでも、どこでも、どんなことでも、悪い事だけに傾いてしまっていたのです。

まったく善意や良い行いがないと言っているのではありません。傾く、というのは傾向のことです。時には良いこともするし、殺伐とした社会の中でほんの一瞬でも心温まるような出来事や美しい人間関係が見られることはあるのです。しかし、全体としては悪い方、悪い方へと傾いていったということです。

こういう傾向は決して人ごとではなく、私たちの日常にも潜むものです。

家から教会に来る途中には病院があるので、時々病院に向かおうとするご老人が横断歩道の手前で右往左往しているときがあります。急いでいる多くの車は、その人の存在に気づいてか気づかずか、一時停止せずに吹っ飛ばしていきます。私は横断歩道に人がいたら止まるように気をつけているのですが、こちらが止まっても反対車線の車が止まらず、後ろの車をずっと待たせることになって気まずい感じになることもあります。しかし、止まらずに行ってしまう人の気持ちも分からないではありません。ここで止まって次の信号に引っかかれば、数分の遅れとなり、渋滞に引っかかったり、果ては仕事に遅れるかもしれと思うと急ぎたくもなります。しかし、こういう小さなことにも十分に自分勝手なな考えが表れるものです。

3 神の痛みと恵み

ノアの時代がどれほど悪に染まっていたか、実際にどんな生活が営まれていたかは詳しく分かりません。しかし、人々の心から神を畏れる敬虔さが急速に失われ、人の思いが悪い方へ傾くのをご覧になった神の心を占めていたのは痛みと悲しみです。

6節に「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」また7節には「わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」とあります。

私たち人間が神の思いを知るには、一定の限界があり、譬えを通してでしか知る事ができないということを念頭に置いておく必要があります。神のお考えや思いは、私たちの能力をはるかに超えていますから、どう頑張っても完全に理解することができません。しかし神は私たち人間に理解できる言葉や表現を使ってご自分の思いを伝えようとなさいます。私たちはそれを手がかりに神の思いをある程度知ることができます。

ですから悔やむとか、残念に思うという、私たちが失敗をしたときに感じる後悔の念を表す言葉が使われていますが、私たちと全く同じような意味で後悔しているという訳ではないのです。神は完全なお方ですから見通しを誤ったとか、計画が間違っていたということではないのです。それでも、私たちが悔やんだり、残念に思ったり、心を痛めたりする経験から想像できるような心の痛みや悲しみを神もまた感じておられたのだということが分かります。

神はすべての罪人が悔い改めて正しい道に戻ることを願い、機会を与えて生かし続けています。神は人間の姿に悲しみと痛みを覚えつつも忍耐しておられます。しかしどれほど神が忍耐深い方だとしても、その猶予期間は永遠というわけではないということです。ですから神のさばきの決断は大きな痛みを伴うものでした。決して非情で無慈悲、横暴な神ではないのです。

それでも神のさばきがくだる時、だれも逃れることはできません。4節に「ネフィリム」が出てきます。モーセの時代にイスラエル人を震え上がらせた者たちです。しかし、力ある勇士たちも神の裁きの前では無力でした。

しかし、そういう厳しいさばきの現実の中でも神の恵みが途絶えた訳ではありませんでした。8節に「しかし、ノアは、主の心にかなっていた」とあります。このノアとその家族に方舟を造らせ、動物たちを生き延びさせ、彼らによって新たな歩みを始めさせようとされたのです。

実は「主の心にかなっていた」の原文では、主の恵みに強調点が置かれています。それで他の訳では「エホバの目の前にめぐみを得たり」とか「主の前に恵みを得た」、「主の好意を得た」となっていて、いずれもノアが神の眼鏡に適っていたというよりは、恵みによって救われたことが強調されています。つまり、罪に対する厳しいさばきの中でも、主の恵みは残されていて、ノアとその家族は救いをいただくことができたというわけです。

適用 主の心にかなう人

大洪水によって滅びることが決定づけられた人々の不敬虔さ、傲慢さと、主の恵みを受けることになったノアの姿を見るとき、聖書が云う「敬虔さとか」「主の心にかなう人」とはどういう人のことなのかと改めて考えさせられます。考え方や価値観がバラバラで、クリスチャンの理想像さえ多様になってしまったこの時代の中で、神の御心にかなう人であるためにどうしたらよいでしょうか。

ノアも人間ですから、罪を犯したことのない完全に正しい人だったという訳ではないはずです。実際、洪水のあとのノアの生活に見られる気のゆるみというか、不用意さを見れば、彼も間違いの多い人間だったということが分かります。しかし、大洪水で滅ぼされることになった人々の問題が生活から神を追い出す不敬虔さ、傲慢さだったとすれば、ノアはたとえ不完全でも生活の中で神を求め、神を畏れ敬って生きようとしていたのではないでしょうか。

使徒ペテロは、クリスチャンの敬虔さとは何かをテーマにした箇所で、洪水で滅びることになった不敬虔な者たちと、救われたノアの家族を比較しながらでこう書いています。「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。」(Ⅰペテロ4:3−4)

洪水で滅ぼされた人々にとって大事なのは、神のみこころよりも自分の好みで妻を選ぶような、自分が求める満足を得ることでした。それは際限がないので、人に与えられた正常な欲求は度を超えた欲望となり、ペテロが指摘しているような行動へと駆り立てるわけです。

しかし神を畏れることを取り戻したクリスチャンは欲望を満たすことで本当の満足を得られるのではないことを学んだので、遊び方や生活の仕方がかつてのような度を超したものではなくなるのです。

神はこの時代、大洪水前の時と同じように私たち人類のありように心を痛め、悲しんでおられるはずです。そして聖書が指摘するように、神の忍耐の時は永遠ではなく、やがて滅びの日が来ます。

神は私たちに、楽しむことを知らない堅物のようなクリスチャンになって欲しいと願っているのではありませんが、かといって神を知らなかった頃に戻って、自分の生活や人生の一つ一つの場面で、神なんか関係ないというような生き方に戻ってしまわないようにと警告しています。

私たちがキリストの救いの恵みを頂いたのは、そういう生き方の中には本当の喜びや救いはなく、神を畏れ敬うことに本当の道があると気づいたからではないでしょうか。神の恵みは今も注がれています。その恵みによってのみ私たちは信仰の歩みを全うできます。この恵みの神を第一としていく生活こそが、主の心に適うものなのです。

祈り

「天の父なる神様。

今の時代は、ノアの時代のように、神を畏れることをすっかり失ってしまった時代のようです。

そういう中で、私たちクリスチャンも時として、神を畏れる生活よりは、自分の願いや自分のしたいことを中心に置いてしまいます。それがまずいなあと思っても、あえて選んでしまうことさえあります。

しかし、そのようなことこそが不敬虔であり、傲慢さであること、それこそが大洪水によるさばきさえ引き起こした罪であることを教えられました。

けれども、あなたは恵みに富んでおられる方で、私たちを救ってくださり、その恵みの御手によって支えてくださいます。

どうぞ、あなたの恵み深さにふさわしく、あなたを畏れて生きる者、神を第一とする者にしてください。しばし立ち止まって、私たちの生き方を点検させてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

(C)Masaki Sasaki

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