†「悪人を滅ぼさない訳」
7月 18, 2010
聖書:創世記4:13-16
導入 生き延びる悪人
神はなぜ悪人を滅ぼされないのでしょうか。それほど大きな悪でなくとも、小さな悪が見過ごしにされているかのように思えます。
私たちの目には正直に生きている人が苦労し、ずる賢く立ち回る人々が得をして生きているように見えることに不公平を感じたり、腹を立てたりします。
なぜ神は、そういったことを放って置かれるのでしょうか。その疑問は、私たちの個人的な経験の中でもしばしば感じることかもしれません。私にあんなひどい事をした人がのうのうを生きているのにイライラさせられる。あんな悪いことをしたのに、まるで何事もなかったかのように平気な顔をしている。それなのに、神は「さばいてはいけない」とか「復讐してはいけない」と言われます。私にできることはせいぜい皮肉を言ったり、ちょっとした意地悪をして密かに「いい気味だ」とほくそ笑んだりすることですが、そんなことをした後で、決まって虚しくなり、気分が悪くなります。
今日は人類で最初の殺人を犯したカインに対する神の取り扱いをご一緒に学んでいきます。カインの両親が犯した罪は、食べてはいけないと言われた木の実を食べただけのことでしたが、その息子は早くも兄弟を手にかけてしまうという恐ろしいものでした。そのようなカインに対する取り扱いの中から神の御心を教えていただきましょう。
1 カインの不平
まず、カインの不平不満に耳を傾けてみることにしましょう。
13節のカインの言葉「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。」は一見すると殊勝な反省の言葉のように見えます。しかし、実は罪の大きさではなく、自分の罪の報いの大きさに不平を言っているのです。
カインはいったい何をしたのでしょうか。
カインには弟がいました。カインは畑を耕し、弟アベルは羊飼いになっていました。アダムの一家がいつから主に捧げものをするようになったかは分かりませんが、一度は背を向け、報いとしてエデンの園を追われたにも拘わらず、再び神との交わりを礼拝というかたちで回復していたのです。
それは息子たちに受け継がれたようでした。カインとアベルはそれぞれ自分達の手で働いて得たものを神に捧げようとしたのです。
しかし弟アベルが捧げたものは神に受け入れられたのに、カインの捧げものは受け入れられませんでした。羊の捧げものが良くて、畑で採れたものはダメだったというのではありません。二人の捧げものの選び方や捧げ方に表れた、二人の心のあり方に大きな違いがあったのです。
最上のものを惜しまずに捧げた弟の捧げものが受け入れられたとき、カインの捧げものはそうではなかったことが明らかにされました。
しかしカインは自分の心を改めるよりも、恥ずかしさと怒りで顔を伏せてしまいました。神はまだやり直せると言いましたが、カインはその怒りを弟への妬み・恨みへとねじ曲げて、ついにはその手で弟を殺してしまったのです。
カインは自分の心が弟のようには誠実ではないことに気づいていました。しかしカインは拒絶された怒りを、悔い改めではなく比較された弟に向けてしまったのです。
それは大きな報いを伴うものでした。農夫のカインにとっては生活の基盤であった土地が呪われてしまいました。弟の血を吸った土地は正義に反することが行われたことを神に訴え、もはや彼の労働に見合うだけのものを生み出さなくなってしまいました。そのため、かれはさすらい人とならなければなりませんでした。仕事や食べ物を求めて常に生活の場を変え続けなければならない、流れ者のような生活です。
このような罪の報いはカインにとって大きな重荷に思えました。犯した罪に対する報いが大きすぎるといって不満を訴えるのはカインばかりではありません。たぶんカインには自分の犯した罪について彼なりの言い分があったのでしょう。それは私たちも時々やることです。「だってこうだったから」。しかしカインは捧げものを拒まれた時に自分自身を省みるべきだったように、報いを受けることになったいま、その報いの大きさに不平を言う前に、報いをもたらした罪の大きさについて考えるべきだったのです。
2 復讐してはならない
カインの訴えは、罪の報いが大きすぎるという不満だけではありませんでした。彼は復讐を恐れたのです。
14節の終わりで、放浪者となった自分を保護する者も見方もいなくなるので、誰かが自分を殺すに違いないと考え、恐れたのです。その言葉には、何とか守って欲しいという神への嘆願が込められています。何というか、実に虫のいい話のようにも聞こえますが、カインとしては必死だったのでしょう。
イエスとともに十字架につけられた二人の強盗のうち、一人は、イエスに「神の子なら、自分を救って俺たちも救え」と苦しみから逃れることを求めましたが、もう一人は、「これは当然の報いだ」と受け入れ、苦しみから逃れることより、イエスに罪の赦しを求めました。
人が自分の犯した罪の報いに直面するとき、誰もが救いを求めますが、ある人にとってその救いは報いとして受ける苦しみや辛さからの解放であり、ある人にとっては、犯した罪そのものの大きさに気づき、罪が赦されることを求めます。カインは、苦しみや恐れから逃れたい一心でした。
しかし神は、そんな身勝手な祈りであっても耳を傾けています。そして15節にあるように「だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」と言って、人がカインに復讐したり、勝手に罰したりしないよう守ることを約束なさいました。そして彼にそのしるしを与えました。
重要なポイントは、カインが復讐を恐れ、神が復讐を防ぐためにカインを守られたというところです。神が7倍の復讐をと言ったのは、復讐には復讐をという連鎖を想定していたのではなく、人間の私的な復讐を許さないということです。23節にカインの子孫のレメクの言葉があります。レメク神の言葉をちゃかして自分自身が復讐する者となり、実際に受けた傷は倍にして返し、自分を傷つけた若者を殺してしまったことを自慢しています。
もちろん、神はそんなふうに人がさらに罪の深みに自ら進んでいくことを避けようとなさったのです。
さて、神が復讐を恐れるカインを保護されると約束されたことは、その後の悪人に対する扱いの基本となりました。神は、適正な裁判なしに人がその罪故に殺されることを禁じましたし、個人的な復讐にも制限を与えました。いわゆる仇討ちが容認される時代であっても、追われる者が保護され、さばきを受ける権利を保障されます。そして、神の悪人に対する御心はこの御言葉に表れています。
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」ローマ12:19
誰かが自分の問題のために苦しみを味わっているときに、この時ぞとばかりに追い打ちをかけるようなことをしたり、仕返しをするのは神がお許しにならないのです。
3 生かされたカイン
では、神は何のためにカインを生かし続けたのでしょうか。住み着いた土地を追われ、さすらい人となって一生を苦しみながら生きるためでしょうか。
確かにカインは16節にあるように、エデンの東にあるノデという地域を中心にさまよう者となりました。しかし、そこには「主の前から去って」とあります。カインがノデの地に去ったのは自分自身の意志によります。
捧げものの事で怒りに震えているとき、神はカインに語りかけました。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」
カインはあのとき別の選択をすることもできたのです。自分の不誠実な態度を認めるという道です。
そしてアベルを殺した報いを宣告された今も、主の前を去る以外の選択肢もあったのです。それは、報いの大きさに不平を言い、復讐を恐れて神に文句を言うのではなく、自分の犯した罪の大きさを認め、神の前にへりくだることです。神の前に留まり、赦しを求め、やり直す道もあったのです。しかし、カインはそうせずに、主の前を立ち去りました。
神はカインが御前を去りながらも、約束されたようにしるしを与え、復讐する者の手から守ることにしました。彼を滅ぼすこともせず、復讐する者の手からも守り、御前を去った者をなお生かし続けた理由のすべてを知る事はできませんが、みことばから一つのことは分かります。
それはカインが自分の罪の大きさを認め、神の前にへりくだること。一度は背を向けた神のもとに帰ってくることなのです。
今週のみことばにも取り上げましたが、Ⅱペテロ3:9にこうあります。
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
またよく知られたヨハネ3:16にはこうあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
神が望んでいるのは、悪人が滅びることではなく、一人でも多くの人が悔い改めに進むことなのです。ここに悪人を滅ぼさない大きな理由があります。
もし神が罪を犯した者が生き延びることを許さないのだとしたら、誰が神の前に生きながらえることができるでしょうか。カインは滅びるべきで、私は生かされるべきだという事ができるでしょうか。悔い改めのチャンス、やり直すチャンスは、あらゆる罪人に与えられるものです。なぜなら神はたとえ罪ある者であっても、私たちを愛しておられるからです。
適用 神の望み
さて、弟殺しという恐ろしい罪を犯し、その上自分の罪の大きさよりも、報いの大きさに不平を言い、そのあげく復讐を恐れて神に保護を求めたカインが、生かされ、守られたこと、その背後には、神がすべての罪人が悔い改めに進むことを望んでおられるという御心があることは、私たちの生活にどんな意味を持つでしょうか。神は私たちに何を望んでおられるでしょうか。
第一に、当たり前と言えば当たり前の事ですが、もし悔い改めていない罪があるなら、それを神の前に悔い改めることです。
第二に、罪の結果として当然受けるべき報いから逃げないことです。神に悔い改めればすべて終わりという訳ではありません。神は人間関係や社会の中でも正義が行われることを求めています。謝罪すべき人に謝罪し、償うべき損害があるなら償うことです。
第三に、罪を犯した人に対しては、神のみこころにそった態度を示すべきです。神はその人が滅びることではなく、悔い改め、神に立ち返ることを望んでいるのですから、責め立て、追い打ちをかけ、滅ぼしてしまうような事はすべきではありません。自分も同じ弱さを持つ者として謙遜な心、柔和で穏やかな態度で間違いを正すようにと聖書は教えています。
第四に、罪を犯し神に背を向け続ける人のための忍耐深く祈り続けることです。
新約聖書は、クリスチャンであっても、悔い改めの勧めを心を頑なにして拒むなら、教会から除名し、未信者と同じように扱いなさいと教えています。悔い改めない頑なな心のままでは教会家族の一員でいることはできませんが、しかし放り出して捨ててしまう事ではありません。
神は教会が未信者をどう扱うことを願っているでしょうか。罪人として軽蔑し、聖い生活をするようになったら仲間にしてあげるという態度を取ることですか。そうではないはずです。であるなら、私たちは残念ながら神に背を向けた人たちのために、いつの日か自分の間違いに気づいて悔い改めに進むことを忍耐深く祈り続けるべきなのです。
第五に、これまで罪を犯した人、失敗した人に対して自分がどんな態度を取ってきたか、それは神の望まれたものであったのかを吟味し、相応しくないものがあったなら、改めるべきです。
神はなぜそのような人たちを放置しているのかと腹が立つ時がないわけではありませんが、神の罪人に対するその哀れみがあったからこそ私たちもまた救われたのだし、神の愛を受けることができたことを私たちは思い出すべきです。神が愛そう、赦そうとしている人を私たちが勝手に裁いていいわけがありません。神の望みは、罪人が罪の重さに押しつぶさ、苦しむことではなく、神の元に立ち返っていのちを得ることだということをもう一度しっかりと心に留め、私たちの行動の原則としなければなりません。
祈り
「天の父なる神様。
今日はご一緒にカインの不平とそれに対するあなたのお取り扱いから学びました。
あなはたすべての人が悔い改めに進むことを願っておられます。罪人が救われるためにこそイエス様は十字架につけられました。
それなのに私たちは復讐心に燃えたり、人を裁く思いに満たされ酷い言葉や態度で相手を責めてしまうことがある者です。どうぞお許しください。
また、自分自身が悔い改めることよりは言い訳をし、罪の結果の辛さに耐えかねては不満を漏らす者です。どうぞ気づかせて下さい。
私たちにあなたの前からは去って行くのではなく、へりくだることを教えてください。隣人に対して裁く心ではなくあなたの愛を持って、接することをおしえて下さい。
愛とあわれみに富んでおられるイエス・キリストの御名によって祈ります」
(C)Masaki Sasaki
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