†「おおってくださる神」
7月 11, 2010
聖書:創世記3:20-24
導入 恵みをめぐる物語
聖書には実に様々な登場人物や出来事が記されており、その多くはすでに何度も耳にしたものかもしれません。また私自身も何度か取り上げてきた箇所もあります。
しかしもう一度、神が人に対してどう関わって下さるのか。神の恵みとそれに対する人間の様々な姿をご一緒に見ていきたい思います。
神の尽きない、忍耐深い恵みの数々にふれた人々が、いつでも信仰深く、従順であったわけではなく、それがゆえの不幸を背負う場面もあるのですが、そういった面も含めて、私たちの生活、人生の中に与えられる神の恵みとはいったいどういうものなのか、そして私たちはどう応答する者なのか、またどう応答していったら良いのか、そんなことを発見できたらと願っています。
さて、人間の歴史の中で一番神の恵みを必要としていたのは、アダムとエバではなかったかと思います。最初に造られた人として神の最高の祝福と、なんの隔たりもない交わりの中にあった彼らが、一瞬にしてすべてを失ってしまいました。神によって告げられた罪の報いはあまりに重く、大きなもので、自分の後に続くすべての子孫がそれを背負わなければならないという宣告に打ちのめされていたのではないでしょうか。
そんなものを背負った彼らはその後どうやって生きて行ったのでしょう。
1 約束を信じたアダム
まず、アダムは自分の妻に対して「エバ」という名前をつけて呼ぶようになりましたが、そこに神の約束に対する信仰が見て取れます。
最初の人間といえばアダムとエバ、あるいはイブですが、意外なことに「エバ」という名前は3:20になるまで一度も出てきません。それまでは「女」または「妻」としか呼ばれていません。
しかしアダムは罪を犯し、罪の報いを宣告されてから、一つの希望を込めて妻をエバと呼ぶようになりました。
「エバ」とは20節の中で説明されているように「生きているもの」または「生命」という意味の言葉の語呂合わせで名付けた名前です。
罪に対する報いとして、苦しみが増し、土地はのろわれ、食べていくために一生労苦しなければならなくなり、ついには土に帰らなければならなくなった、ということが宣告された直後に、妻を「全ての生ける者の母」と呼んだのはとても意味のあることです。
アダムは神の宣告の中にある一筋の希望にしっかりと目を向けました。15節で神は惑わしたへびに対して言われました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえ、彼のかかとにかみつく。」
主は、女の子孫が、人間を惑わしたもの、へびの背後にいる悪魔を滅ぼすことになると預言されたのです。
しかも「子孫」という言葉は、一人の個人であることが示唆されていますから、これは後に来られるイエス・キリストのことを指していると考えられます。
アダムとエバを惑わしたへびの背後に悪魔がいることや、女の子孫として生まれるのが人としてお生まれになった神の御子イエス・キリストであること、キリストが後に「第二のアダム」と呼ばれること、キリストが悪魔の業を打ち砕くのが十字架の死と復活を通してである、というようなことが明らかになるのはずっと後の事です。
しかしアダムはそういう具体的なことは分からずとも、神が約束されたことの中に救いを見出し、信仰をもって受け止めました。だからこそ、妻を「生きているものの母=エバ」と呼ぶことができたのです。彼女のうちに宿るいのちが、やがてすべての人間を罪と死の呪いの支配から解放してくれると信じたのです。
一度の過ちが大きな報いを背負わなければならない定めとなったアダムとエバにとって、15節の約束は大きな希望となり、慰めとなったのではないでしょうか。背負うべき苦しみが少なくなるわけではありません。むしろ彼らはまさにこれから宣告された苦しみ、労苦の一つ一つを味わいながら生きて行き、やがて土に帰るということを経験していくことになるのです。しかし、その労苦にはつねに一筋の希望の光が差し込み続けているのです。罪ある人間ですが、神を信じるところに常に希望があるのです。
2 神の備えた衣
アダムが妻をエバと呼び始めたころ、神は二人のために皮でできた服を用意して下さいました。それは、神ご自身が罪によって恥と恐れを覚えるようになった二人のために備え、覆って下さったことを意味します。
それまで二人は、3:7にあるように、いちじくの葉をつづり合わせたもので腰を覆っていました。互いに裸であることが恥ずかしいと感じたり、神に見つかることを恐れて隠れようとしたりする感覚は、罪の結果わき起こってきたものです。けれども、その恥を覆おうとする本能そのものが罪なわけではありません。
しかし人間には、その恥と恐れの原因である罪をなくしてしまうことはできません。できることはただ恥と恐れを覆い隠してしまうことだけです。
「いちじくの葉をつづり合わせたもの」という、いかにも頼りげないものしか作ることが出来ませんでした。2,3日すれば葉っぱも枯れ、使い物にならなくなるので、また新しいものを作らなければならなかったでしょう。
その哀しく頼りげない努力は、その後の人類が現代に至るまでやり続けていることと本質的に同じなのではないでしょうか。
コロサイ3:5〜9には、クリスチャンが捨てるべき古い行いが、脱ぎ捨てるべき古い衣に喩えられて挙げられています。人は自分の満たされない心、空しさ、恐れ、不安などを覆い隠すためにこれらの行いに向かおうとします。
けれどもそれらは一時しのぎであって、何日かすれば枯れて役に立たなくなるイチジクの葉のように、別のもの、新しいものに取り換えらなければならなくなるのです。
神はアダムたちが作ったイチジクの葉でできた衣に替えて、丈夫で長持ちのする皮の衣を用意して下さいました。「衣」と訳されている言葉は、別の箇所では「下着」とか「ももひき」と訳されたりもしますが、最も重要な使い方は、祭司が聖なる神の前に立つために必ず身に付けなければならない祭司用の下着、チュニックを指す言葉でした。
神はアダムとエバが毎日にように葉っぱの衣の傷み具合を気にしながら自分の身を覆うために苦労しているのをそのままにはして置かなかったのです。
確かにエバは愚かにもへびに騙され、アダムも神の言葉をはっきりと理解していながら妻の誘いに乗って、結果的に神の戒めを破ってしまいました。その報いは二人で背負うにはあまりにも大きなものでした。しかし、神は「それはお前たちが自分で蒔いた種だから」と苦しむままにはされなかったのです。
神のさばきの宣告とともに語られた希望を信じたアダムに対して、神は哀れみを示し、恥を覆い「もういいから」と言って下さっているかのようです。
この事は人の抱える罪の問題、そして空しさ、恐れ、不安を取り除くことができるのは、神によって備えられたものによるしかないことを指し示しています。
3 閉ざされたことの恵み
アダムの信仰に応えるかのように皮の衣を与えることによって、アダムとエバ個人には赦しを与えた神ですが、人類全体の問題がそれでチャラになったわけではありません。労働や出産の苦しみが無くなりはしなかったように、報いは受けなければなりませんでした。その報いの最後は、エデンの園から追放されるということでした。いわゆる「失楽園」と呼ばれる出来事です。
神との親しい交わり、安全、豊かさ、喜びに溢れた園を追い出され、彼らは土を耕す者となりました。その後のエデンの園に至る道にはケルビムと燃える剣が置かれ、誰であれそこに入ることはできなくなりました。しかし閉ざされたこともまた見方を変えれば恵みであったと言えます。
燃える剣は誰でもイメージできるように、ここから先は絶対に通さないという神の意志をはっきりと示しています。そしてケルビムは、天使や御使いと呼ばれる神のもとで使える者たちの中でも最も地位の高い名前のある御使いの一つです。
ケルビムは人間を神の神聖さから遠ざける者としてしばしば登場します。
十戒の板などを納めた契約の箱の蓋にはケルビムの象が蓋を覆うようにくっつけられていました。
また契約の箱が安置された至聖所の前にかけられた幕にも見事な刺繍細工でケルビムが織り込まれ、人の出入りが禁じられていることを示していました。
ケルビムと燃える剣は園の中央にあったいのちの木を食べて永遠のいのちを得ることがないように置かれました。人は自分の力で神との交わりに戻ることも、永遠のいのちを手に入れることもできなくなったのです。
しかし、それは人間にとって呪いであるというより、むしろ恵みであったのかもしれません。というのも、古い神話のように、世界のどこかに永遠のいのちを得られる場所があって、実際にそこに旅が出来るのだとしたら、恐らく人々は、また神との交わりの中に永遠のいのちを求めるのではなく、木の実に永遠のいのちを求め、それを得るために争い、人生の大切なものを投げ捨ててしまうにちがいないのです。
神に頼らずに生きることを選べることを知った人間のためには、エデンの園は完全に封鎖されなければならなかったのです。
そして永遠のいのちに至る道は、イエス・キリストによって再び開かれることになります。主イエスが十字架の上で息絶えたとき、エルサレム神殿の至聖所に掲げられた、あのケルビムの刺繍が施された幕が真っ二つに裂け、最も神聖な場所があらわになりました。いのちの木の実によってではなく、アダムが信じた神の救いの約束の成就であるキリストを通して、神との交わりの中に至る道、永遠のいのちへの道が回復されたのです。ケルビムは神の約束以外に救いがないことをはっきりと教えてくれるのです。
適用 新しい衣
アダムとエバの姿は、人間が何万年経っても基本的には全く変わっていないことを指し示しています。
そしてアダムの時代と比べたら、とてつもなく知識も技術も発達し、文明が栄えているとしても、相変わらず私たち人間は自分の行いが暴かれること、心に秘めた思いに光が当てられることを恐れ、恥じる者です。それは具体的な罪の問題であるかもしれないし、誰にも見せたことがない心の虚しさや寂しさかも知れません。子供の頃受けた親からの仕打ちにいまだに苦しめられているかもしれないし、生きる意味や働くことの意味に確信が持てないままやっとの思いで生きている姿かもしれません。あるいは病気や老いに直面したり、経済的な厳しさの中で、口にできないほどの恐れと不安が心を縛り付けているかもしれません。
さすがにいちじくの葉っぱで覆いを作る人はいません。しかしその替わりのもので、そういった不安や恐れ、寂しさ、痛みや怒りを覆い隠そうとします。
さきほど開いたコロサイ3:5にあるように、神との交わりの中にいのちを見出すのではなく、欲望を満たすことで心の空しさを紛らわそうとして、不品行や悪い行いに走る人もいます。
あるいは8節にあるように、不安や痛みを覆い隠そうと怒りや憤りを外に向けることで自分を守ろうとする人もいます。悪意ある言葉や人への批判は、しばしば自分自身の負い目となっていることの裏返しであると言われます。
神がアダムに対してなさったことは、イチジクを綴った壊れやすい衣のようなもので自分を覆い隠すのではなく、神が備えたものを着ることで、神の赦しを受け、覆われ、回復できるのだということを表しています。
アダムとエバのために皮の衣を作るには、少なくとも1匹の動物のいのちが犠牲になったはずです。
しかし私たちの赦しのため、私たちの癒しのため、私たちの恥を覆い、恐れを包んで「もう大丈夫だから」と言ってくださるために、神はひとり子イエス・キリストのいのちを犠牲になさいました。
ガラテヤ3:27には「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」とありあす。神が私たちのために用意なさったのは皮の衣ではなく、イエス・キリストご自身であることがはっきりと語られています。
私たちは罪ある者、弱さのある者です。強いと思っている者も弱さを隠すために強がっているだけです。そしてそれらを覆い隠そうと必死になっている私たち人間を、神は見捨てたり放っておいたりせず、私たちをキリストによって覆い、真に赦し癒してくださるのです。
壊れやすくしょっちゅう取り換えなければならない古い衣を脱ぎ捨て、キリストご自身によって私たちの恥と恐れを覆って頂き、罪赦された新しい人として生きるようにと神は私たちに語りかけてくださっています。
祈り
「天の父なる神様。
私たちはアダムとエバがイチジクの葉で自分の恥と恐れを隠そうとしたように、心に潜む恥や恐れ、怒りや寂しさ、空しさを隠したり誤魔化したりするために必死になり、時にはそうすることにすら疲れてしまうものです。
しかし神様は、私たちがそんなふうに虚しいものに捕らわれ、必死になって取り繕う姿をご覧になり、悲しみ哀れみ、助けを差し伸べて下さいました。
あなたが私たちのために用意されたキリストご自身によって私たちを覆ってください。私たちを赦し、覆い、慰め、いやして下さい。
私たちは、自分で作ったものではなく、あなたが用意してくださるものが必要です。素直な心であなたの救い、約束を信じ、あなたの用意なさった皮の衣、イエス・キリストご自身を受け入れさせてください。
あなたが私たちを愛し、赦し、覆ってくださる方であることを心から感謝します。
イエス・キリストの御名によって祈ります。」
(C)Masaki Sasaki
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