†「私の望み」

Date 2月 21, 2010

礼拝メッセージ
聖書:使徒26:24-32

導入 信仰にはまってる?

私たちの社会では、信仰心を持つことは良いこととされますが、あまり熱心だと「ほどほどに」しなさいと言われます。いわゆる「宗教にはまった人」の行動や考え方の異常さが目につくからなのかもしれません。

パウロがアグリッパ王に弁明し終えたとき、最初に口を開いたのは総督フェストでした。その言葉は「気が狂っているぞ」というものです。あまりに博学なため、おかしくなってしまったというような言い方です。

常識的であることが大人の証明、美徳と考えられる中で、「宗教にはまっている」とか「あいつおかしいんじゃないか」というような言われ方をするのはとても心外ですし、またそんなふうに噂をされたり後ろ指をさされることを恐れて、証しができないという事にもなります。

恐れることなくあかしをするような熱心なクリスチャンは「宗教にはまった人」なんでしょうか。決してそうではないはずです。

しかしながら、そういう言われ方をしてしまう現実、そして何よりそう言われることを恐れているクリスチャンがいるという現実があります。

今日は、弁明を終えた後の総督フェストとアグリッパ王が示した二つの反応と、それらに対するパウロの受け答えを見ながら、聖書がどんなヒントを私たちに用意しているかを学んで生きましょう。

1 真実でまじめな信仰

第一に、パウロは自分の信仰が「真実でまじめな信仰」だという確信を持っていました。

パウロはフェストに対して25節で「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。」と応えています。

この「まじめな真理の言葉」というのは、別な訳では「まじめな真実の言葉」とか「真実で理にかなったこと」と訳されています。「まじめな」とか「理に適った」と訳されるもともとの言葉は、「思慮深いこと、分別のある、均衡のとれた」という意味を持つ言葉が使われています。

福音の内容が嘘偽りがなく、まじめなものであるといことは何によって判断されるでしょうか。

それは福音そのものが筋の通った内容である、というだけでなく、実際に起こった事柄に根ざしていること、そしてそれを語る人の生き方によって確かめられるものです。

パウロは26節でこう言っています。「王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます。」

アグリッパはパウロが弁明してきたことがらについて、全部を直接見たわけではなくとも、「片隅で起こった出来事ではない」こととして、少なくとも聞いて知っていたはずだということを指摘されています。

ユダヤ人たちが待ち望んできたこと、死者の復活という希望、ナザレのイエスの働きや教え、十字架による処刑、復活のうわさ、その後突然のように起こった教会という新しいグループの出現、そしてパウロを先頭に行われた執拗な迫害。それからパウロに起こった突然の変化とその後の生活。

それらはイエスがよみがえった約束の救い主であるということぬきには説明できないことばかりでしたし、何よりパウロ自身の大きな変化は、イエスが救い主であるということに気づかされたことを抜きには絶対に説明できないことでした。

常識にとらわれたといったら語弊がありますが、ある人たちにはパウロの弁明やクリスチャンの証しを「気が狂っている」とまではいかなくとも「のめり込みすぎている」とか「はまっている」とか「うざい」とか言うかもしれません。

しかし、福音が真実でまじめなものであるからこそ私たちは信じることができたのですし、もしいくらかでも私たちの生活に良い変化が起こっているとするなら、それは福音が真実なものであったからこその変化なのです。

ここでも私たちは福音の知的な理解と生活や人格が成熟を目指して変化し続けることの大切さを思い知らされます。

2 恐れから来る反応

第二に、福音がまじめな真理であることを示すことができたとしても、聞く人の中に恐れから来る反応があることを知っておくべきです。

パウロは最後に27節で「アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」と問いかけています。

預言者を信じていない、という答えはユダヤの王としてはあり得ないものでした。ユダヤ人であるからだけでなく、政治的にも大きな危険にさらされます。

かといって「預言者を信じている」と言ってしまえば、では神が約束の救い主として示された方を受け入れるかと聞かれるに決まっています。

そこまで肝の据わっていないアグリッパはなんとか逃げ道を探しました。それが28節の答えです。

「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」

わずかな言葉は、短い時間でも訳せます。福音がどれほどまじめで真実なものであるかを分かったからといって、すぐさまそれが良い結果に結びつく場合だけではありません。

アグリッパはユダヤ人として代々受け継いできた預言者を敬う心を捨てることはできませんでしたし、それを否定することで民の反感を買う政治的な危険を冒すこともできませんでした。

かといってパウロの勧めに従ってイエスを救い主として受け入れることもできませんでした。たとえそれが理に適ったことだと分かっていてもです。それは当然ユダヤ人の反感を買うことに繋がるでしょうし、これまでの彼らの動向を知る者として身の危険さえ感じ取ったはずです。

かといって「信じない」と言ってしまうことも筋が通らないと言われるのは目に見えています。パウロにそう言われることが怖いというより、自分自身でそう言ってしまうことがためらわれたのでしょう。

私たちの経験の中でも似たようなことはあるのではないでしょうか。

分かるけれど信じる事をためらう人。信じるけれどそこから先に進んでいくことにためらう人。もうちょっと勉強してから、と言う人もいます。

信じた後の友人や家族との関係を危ぶんだり、お墓や檀家になっているお寺との関係がどうなるか心配になる人も当然起こってきます。

自分の場合はぜんぜんそういう心配などなかったという人もいるかもしれませんが、そうした恐れや心配は、多くのクリスチャンが同じように経験してきたことです。私たちはそうした恐れ故の反応というものを、そのまま受け止める必要があります。

3 神に願うことは一つ

第三に、パウロはアグリッパの煮え切らない反応を見ても、神に願うことに変わりはありませんでした。人々が自分と同じように福音に耳を傾け、イエスを救い主として信じて欲しいし、クリスチャンとして生きるようになることです。

29節の言葉は、彼の願いの強さ、揺るぎなさを感じさせます。

「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」

アグリッパのような恐れ故の反応を、あり得べき事として受け止めることは、あきらめる、ということを意味しているわけではありません。

もちろん「信じたくない」とか「今はいい」と言う人を無理に信じさせることはできませんし、それはそれで受け止めなければならないことです。しかしそれでも、その人が福音を受け入れ、キリストを信じる者になって欲しいと神に願い続け、またそのことを率直に相手に伝えるのがパウロでした。

パウロがどれほど同胞の救いを願っていたかは、別の箇所を開いてみると明らかです。ローマ9:2〜3を開いてみましょう。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」

また同じローマ10:1にも「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。」とあります。

あれほどユダヤ人に迫害され、いわれのない訴えをかけられ、拒絶されてもなお、パウロは彼らの救われることを心から願い、その願いがなかなか届かないことに、悲しみと痛みを抱えていました。

それは、あまりに反抗的な民のためにとりなすモーセの姿にも似ています。モーセがなかなか戻って来ないというので、イスラエルの民は金の子牛を作り、それを神として拝み始めました。ついこの間、神の大いなる力によってエジプトを脱出してきたばかりなのに、ほんの僅かな時間さえ我慢できず、簡単に神に背を向けてしまう民を神は滅ぼし、モーセから新しい約束の民を起こそうとまで言われました。しかしその時モーセは祈るのです。「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら——。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(出エジプト32:32)

こうした強い思い、願いは、自分自身の罪深さ、弱さと神のあわれみの大きさを知った者だからこそのものです。

適用 私の望み

さて、今日の箇所から私たちは何を学び取ることができるでしょうか。

最初に「ルカの福音書」とともに「使徒の働き」を受け取ったテオピロを始めとするクリスチャンたちにとっては、実際に囚われの身となったり、弁明を迫られたりする場面に置かれた時の教科書になったかもしれません。

迫害というほどの状況は今の私たちには今のところありませんが、それでも彼の態度から学ぶべき事があります。

それは、相手の態度に動じることなく、自分の信仰に自信を持ち、隣人の救いを心から願うということです。

自分の信仰に自信を持つ、というのは少し変わった言い方かもしれません。自分が何を信じているかをはっきり理解し、クリスチャンとして大切にすべきことを大切にして生きているという自信です。

私たちは福音が語っていることを分かって信じたはずですが、いざ福音ってどういう内容かと聞かれると、ぱっと出てこなかったりもします。

まして、福音にふさわしい生活ってどういう生活ですかと問われるとどうでしょうか。またそうした生活を目指すことでクリスチャンらしさが自然なものとして身についているでしょうか。

もう卒業してしまったこと、若いうちに頑張ることとしないで、パウロも言っているように、私たちはいつでも成熟を目指して歩む者としての自覚が必要です。

まじめな真理のことばとして私たち自身が聖書の教えに向き合い、福音に生きる事に向き合うことの繰り返し、積み重ねからしかパウロのような、自分が未成熟であることをわきまえたうえでの信仰の自信は生まれてきません。

そして隣人の救いを心から願うことも同じように大切です。これまで証しをしようとして挫けた相手もいたことでしょう。家族や子供、友人がいつでも良い反応を示してくれた訳ではなく、むしろ「もういい」という態度だったかもしれません。

それはそれで受け止めなければなりませんが、簡単に諦めてしまうのではなく、願いとして強く持ち続けるべきです。福音をまじめな真理の言葉と信じるなら、そう簡単に諦められるものではありません。

それに私たちの多くも、福音を聞いてすぐに信じたという者ばかりではなく、むしろ何度も聞き、あるいは時間をかけ、いろいろな悩みや疑問をぶつけたりしながら、ようやく信じる決心をしたという人も多いはずです。

ですから、今日私たちは、人がどういう反応を示すかに動じることなく、福音がまじめな真理の言葉であることを確信し、また福音に生きることを何よりの願いとしましょう。それと同時に私たちの家族や友人たちをふく隣人の救いを願いとして堅く持ち続けましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちをイエス・キリストによる救いへと導いてくださり感謝します。

この福音のことばを、まじめな真理の言葉として改めて確信させてください。それととも福音に生きることを私たちの何よりの願いとさせてくださって、与えられた信仰に自信を持つことができるように助けてください。

また私たちの家族や友人たちの顔を思い浮かべながらもう一度主の前に願います。どうぞ彼らを救いへと導いてください。かつての証しが上手く行かなかったとしても、長い間祈ることを忘れていたとしても、今日、あらためて私の願いとして主に祈ります。どうぞ彼らに私に与えた恵みと同じ恵みを注いでください。

恵みの主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

(C)Masaki Sasaki

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