†「救いの物語、再び」
2月 14, 2010
礼拝メッセージ
聖書:使徒26:1-23
導入 共感を得る話
独りよがりの話、自分のことばかり話す人の話、知識をひけらかすような話、こういう話は聞いていてつまらないだけでなく、聞く気が失せてしまうものです。
その点では、私は毎週こうして聖書からお話する時、独りよがりになっていないかと、随分気を遣います。そもそも説教は私自身のことを話すのではなく、神のことばを話すはずのものだからです。
それはそうとして、私たちは自分の信仰のことや救いの経験を話すことを「証し」とか「証しをする」と言います。これは聖書に出てくる言い方ではあるのですが、特殊なキリスト教用語というわけではありません。クリスチャンが自分の信仰について語ることは、聞く相手にこの話しが本当だということを知ってもらうためのものだということを表しています。
だとするなら、肩肘貼らずに自然体で証しをしようなどとも言われますが、証しを気軽なおしゃべりの延長のようにだけ考えるのは証しの片側しか言い表していないように思えます。むしろ、共感を得て聞いてもらえるような話し方のコツのようなものが必要なのではないでしょうか。
今日はパウロがアグリッパに弁明する機会が与えられ、救いの物語を再び語る場面から、証しの提示の仕方を見ていくことにしましょう。
1 共に抱えてきた望み
第一にパウロが主張しているのは、「私たちは同じ望みを抱えてきた」という点です。
いつものようにパウロは、きちんとした作法通り、礼儀正しく演説を始めます。「アグリッパ王」と呼びかけていますが、総督フェストにはすでに話した内容だったので、この話は主に、ユダヤの領主であるアグリッパに対する説明となっています。
この弁明の中で、パウロは最初にユダヤ人もよく知っているかつての生活について述べています。それが4節から12節まで続きます。前に何度も出て来た話ですので、みなさんもよく思い出せることでしょう。
パウロはユダヤ教の中でももっとも厳格な宗派に入り、その教えに従って誰にも責められるところがないような生活をしてきました。
その熱心さはナザレ人イエスを信じる教えに強硬に反対し、教会を迫害し、クリスチャンであれば男女を問わずに捕らえ、しつこく追跡しました。
しかし、このユダヤ教徒としての生活の中で彼が強調している点は6節です。
「そして今、神が私たちの父祖たちに約束されたものを待ち望んでいることで、私は裁判を受けているのです。」
ユダヤ人たちが先祖代々神に仕えながらその約束が果たされることを待ち望んできた希望のために、ユダヤ人から訴えられていると、パウロは主張しています。
神がアブラハムに約束した永遠の祝福の実現をユダヤ人は先祖代々、いつ実現するかと待ち望み続けてきたのです。その希望は、死んだ者が生き返る、神がよみがえらせるという信仰によって裏付けられるものです。そうでなければ神の約束の実現を見ずに死んだ者は虚しく死んでしまったことになるからです。
もしその希望、信仰があるのなら、なぜ神がイエスをよみがえらせたことを彼らは信じないのでしょうか。アグリッパにも8節で問いかけています。「なぜ信じがたいこととされるのでしょうか」
神に与えられた祝福の約束を待ち望むと言いながら、その実現のしるしとして死者がよみがえったということを「あり得ない」と否定するのは自己矛盾だとパウロは訴えているのです。
しかし、ここでパウロの弁論のテクニックより注目したいことは、同じ望みを抱えてきたと訴えている点です。
多くの苦しみや望みの薄い時代を乗り越え、外国の圧迫やあざけりの中でいっしょに待ち望んできたものがあるのです。それはユダヤ人であるなら誰もが分かることです。
私たちはどうでしょう。よほど特別な場合を除けば、私たちが信仰を持つきっかけとなった事柄の中にも、多くの人たちが「なるほど」と思うような、共通する望み、願いがあったことに気づきます。その望み、願いがキリストに心を向けるきっかけになったことをお伝えするのです。
2 古い自分と回心の理由
第二に、パウロは古い自分と回心の理由について述べています。
ほとんどのユダヤ人と同じように先祖代々抱き続けて来た望みを持ちながら、パウロはどのように生きてきたのでしょうか。そしてなぜ、今は違う生き方をしているのでしょうか。パウロはその点をとても具体的に話しています。その中には暴力や人殺しに荷担したことまで隠すことなく明らかにされています。
神の祝福、約束を自分のものとしたいという強烈な願望は間違った行いまで正当化する、狂信的とさえ言えるような行いへと駆り立てました。
律法に厳格に生活し、これを汚すと思えるものは誰であろうと否定し、追い立てるという極端な行動は、もともとは先祖代々ともに待ち望み続けてきた希望から生まれたものです。
私たちがクリスチャンになる以前に持っていた願い、願望はしばしば私たちを間違った行いへと駆り立てました。
ある人は普通の人のように健康な体でいたいというごくささやかな願いを持っていましたが、それが故に親を恨んだり、周りを妬んだかもしれません。
平和で暖かな家庭というごく当たり前のものを望んでいたのに、そのやり方が分からずかえって家庭をめちゃくちゃにしてしまう人もいたかもしれません。そんな家庭で安らぐことなく怯えて過ごしたかもしれません。
愛されたい、自分の居場所を見つけたいと願っているだけなのに、結果的に自分勝手な振る舞いをし、また孤独になっていたかもしれません。
抱いている望み、願望は決しておかしなものではなく、誰もが抱くもの、当たり前のものなのに、その答えが分からない、どうすれば分かるのか知らないために、間違った行いをしたり、混乱した気持ちや怒りを周りにぶつけてしまっていたのです。
しかしパウロがあるとき回心したように、私たちもまた回心しました。何かがそこで起こったのです。
パウロの場合は生きておられるキリストご自身と出会ったことでした。それまではキリスト教は先祖伝来の望みを危うくするものだと思い、激しく憎み迫害してきましたが、そのイエスが生きているということを知った時、この方のうちにこそ自分達が待ち望んできた神の約束の成就があることを知ったのです。パウロは大きな間違いを犯していたことに気づきました。それはまるで目から鱗が落ちるようであり、暗闇から光へと移るような経験でした。
私たちは、他の誰が愛してくれなかったとしても永遠に変わらない愛で愛してくださる神を知り、その愛ゆえにイエスが私のために死なれ、そしてよみがえって生きておられる事を知りました。願いはあるのに間違ったやり方しかできない私を愛して赦してくださる方がいる。この方のうちに求めていた答えがあったことを知ったのです。
3 今、信じている希望
そして最後にパウロは、今信じている希望を語ります。
パウロがイエス・キリストと出会って、自分達が先祖代々求めてきた希望、願いがこの方によって実現されるのだということを知ったことは大きな衝撃でした。それまで知らずにとは言え、その方を拒絶し、攻撃してきたのですから、パウロの回心は劇的なものとなりました。
しかしパウロに与えられたものは、彼自身が約束のものを手に入れて幸せになった、というだけではありませんでした。この希望がすべての人のものだと信じています。
15節から18節にはダマスコに向かう途中で強い光に照らされ目が見えなくなったパウロにイエスが語った言葉が記されています。実際は、その後に示されたことも全部まとめています。つまり、「要するにイエスは自分にこういうことを言われたのだ」という言い方です。
パウロがイエスから示されたことは、彼がイエスと出会い救われたのは、自分のためだけでなく、ユダヤの民と異邦人のところへ遣わすためだということです。
18節「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」
パウロは先祖たちから受け継いで待ち望んできた約束の希望を、想像もしていなかった仕方で手にしました。死んでよみがえったイエスを信じる信仰という道です。
パウロはさらに、イエスへの信仰による救いというこの福音を伝える使命を与えられました。
しかしこの福音はユダヤ人が大切に守り続け、伝え続けて来た預言者たちの預言やモーセの言葉、つまり旧約聖書から離れてしまったものではありません。旧約聖書にはすべてが明快に書かれているわけではありませんでしたが、救い主によって約束が成就し、信仰によって救いが与えられ、約束の御国の子とされるというすべてのことが預言されていました。ですから、パウロには何ら恥じることはなかったのです。
しかも、その聖書の預言によって、パウロがイエスのうちに見つけた救いは、ユダヤ人が共に抱いていた望みであるだけでなく、神を知らないすべての人々が、知らずに偶像やこの世の楽しみ、繁栄、成功などのうちに求めていた魂の飢え渇きに対する答えでもあったのです。
私たちがクリスチャンになる以前に抱えていた悩みや望み、願いといったものが、多くの人にも共通するもの共感されるもので、共に抱えてきた望みがあったのだとすれば、私たちが主イエスと出会って与えられた救いも喜びも、自分だけでなく、他の人にとっても救いとなるものだということです。
私たち一人一人にはそれぞれ違った救いの物語があります。しかし、その物語にはすべての人に通じる希望と願い、そしてその答えが含まれているのです。
適用 私の救いの物語
では、これらのことからどういえるでしょう。
救いの証しは、とても個人的な物語であると同時に、すべての人が心の深いところで待ち望んで、探している希望の答えへと導くものです。
パウロはローマ10:14で言っています。「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」
皆さんの救いの物語は、皆さんの思い出の中にとどめておくべきものではなく、信じたことのない人たち、聞いたことのない人たちのために語られるべき物語です。
それが人の心に届くために、2つのことを思い出して欲しいと思います。
第一は、クリスチャンになる前に何を求めていたのかということです。
宣教師がやっていた英語教室や料理教室を通して触れる新しい文化や宣教師たちの人柄に惹かれたなら、何か今まで自分が知っている文化や人間関係では得られないものを求めていたのかもしれません。
人間関係の問題に疲れ切っていたなら、本当に信頼できる人、決して裏切らない人、自分をありのままで受け入れてくれる誰かを捜していたのかもしれません。我が儘に振る舞う人も実は同じ必要を感じていたかもしれません。
狭い人間関係の中から飛び出したいと思って教会の扉をたたいた人もいるでしょう。その時感じていた胸を苦しくさせるような感じは何に対するものだったのでしょうか。
クリスチャンになる以前の自分の姿、心の状態を思い出し、何を求めていたのかを思い出してください。その飢え渇きのために周りや自分自身にどんな影響を与えたでしょうか。ときにはそれが人を傷つけたり罪深い行いとなって表れたこともあるでしょう。
第2番目に思い出して欲しいことは、イエス・キリストとの出会いの何が一番心を動かしたかです。それだけが福音の全てではありませんし、福音の全体を理解していく過程もあったはずですが、私たちを回心へと突き動かした何かがあったはずです。それは何でしたでしょうか。
神が天地を造られた方だという偉大さかもしれないし、神の変わらない愛かもしれません。キリストの深い愛やあわれみ、真実かもしれません。ある聖書の言葉が心を動かしたとするなら、それはキリストについて何を語っていたから心が動かされたのでしょうか。
そうやって、古い自分が求めていたものと、キリストのうちに見出した答えを思い出し、言葉にしていくとき、私たちの救いの物語は、個人的なものから、イエスこそ救い主であることを証言する「証し」となっていきます。それこそが多くの人の待ち望んでいる希望の成就の証言です。その証言を必要としている人が私たちの周りにはいます。
祈り
「天の父なる神様、私たちを暗闇から光へ、神を知らない生活から神のご愛の中へと導いてくださり、キリストによる救いと、あなたの子となる特権をくださり、心から感謝します。
私たちがかつて主を知らなかった時に、心の中で抱いていた望み、願いを思い返すとき、その答えをどこにさがして良いかわからず、もがいていたことを覚えます。
しかしあなたは不思議な導きで主イエス様と出会わせてくださいました。
今、私たちの周りには、同じような願いとうめきをもっている方々、答えがどこにあるかを知りたいと思っている方々がおられます。
どうか、私たちがそうした方々のための、主の恵みの証人となることができるように助け、力を与えてください。もう一度私たちが受けた恵みを思い出し、言葉にして分け与えることができるようにしてください。
私たちを遣わして下さるイエス・キリストの御名によって祈ります。」
(C)Masaki Sasaki
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